あさが来た ヒロイン・白岡あさの実在モデル・広岡浅子の生涯

NHK連続テレビ小説(朝ドラ)第93作目となる『あさが来た』。本記事は、同作のヒロイン白岡あさ(今井あさ)のモデルとなった実在の実業家・広岡浅子(三井浅子)の「九転十起生(きゅうてんじゅっきせい)」の生涯と、浅子が遺した仕事についてまとめています。

このページの関連記事

このページの目次(広岡浅子 年譜)(スマホやブラウザによって目次リンクが機能しない場合があります。ご容赦ください)

京都􏰀三井出水家第6代当主・三井高益の四女として誕生

1849年(嘉永2年)10月18日、朝ドラ『あさが来た』のヒロイン・今井あさ(演、波瑠)の実在モデル・広岡浅子(幼名、三井照)は、京都油小路出水􏰀の􏰀三井家􏰀(三井出水家、後に小石川三井家)第6代当主、三井高益(たかます)の四女と􏰉して生まれました。

この年の4年後となる1853年(嘉永6年)7月8日、ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊(通称、黒船)が浦賀に来航。浅子が生まれた時代は、欧米列強による外圧にさらされた日本が開国に向けて動き出しはじめようとしていた時代でした。

京都の名門豪商・三井一族の令嬢として生まれた浅子は、幼少のみぎりより生け花や茶の湯などの女子の嗜みよりも相撲や四書五経に関心を示していました。しかし老舗商家の因習により女子に教育は不要と家族は浅子の読書を禁止。浅子13歳の時でした。

浅子が生来の資質を存分に発揮出来るようになるには、日本が明治維新などの動乱を経て諸制度が改革されるまでの十余年を待たなければなりませんでした。

2歳で既に許婚だった大阪の􏰀豪商加島屋・広岡信五郎􏰉と結婚

1865年(元治2年)4月3日、浅子はその当時大阪最大の豪商と言われた加島屋・広岡信五郎􏰉と結婚。その時、浅子は数え年で17歳。この結婚について浅子は後年「何事も人に􏰅運命を作られ􏰄て行く女の􏰀哀れな􏰆境遇を一層痛切に􏰅感じました」と書き残しています。

ところで、浅子の結婚は浅子が2歳の時に既に決められていたものでした。「重縁」と呼ばれる縁家同士の結婚が尊ばれた時代にあって、三井家に生まれた女子は広岡家(加島屋)に嫁ぐことが決められていたのです。

浅子が嫁いだ頃の広岡家(加島屋)は当時の老舗商家の多くがそうだったように、商売はすべて手代に任せきりにし、夫の新五郎に至っては茶の湯や謡曲に親しむ数寄者として趣味にふけるのんびりした毎日を送っていました。

ちなみに浅子が広岡家に嫁いだ6日後の1865年(慶応元年)4月9日。浅子の姉・春(劇中名は今井はつ、演:宮崎あおい)が、大阪の老舗の両替商・天王寺屋の大眉五兵衛と結婚しています。【1865年4月7日、元治から慶応に改元】

浅子が結婚した年の三年後の1868年9月8日。元号は慶応から明治に改元され、ついに日本は新しい時代を迎えます。浅子の活躍は目睫に迫っています。

大政奉還による難局を乗り越え浅子が頭角を表す

1867年(慶応3年)11月、浅子の嫁ぎ先の加島屋は大政奉還という時代の激流に飲み込まれました。

しかし、大政奉還の二年前に加島屋に嫁いだ浅子は、三井では禁じられていた学問を再開。結婚早々、簿記や算術などの実学に没頭する浅子を夫の信五郎は反対することもなく、浅子の好きなようにさせていました。

この時に身につけた実学が、大政奉還が招いた嫁ぎ先の加島屋の窮地を救い、若干二十歳の浅子が卓越した商才と時代の先を読む研ぎ澄まされた嗅覚を発揮し、その頭角をあらわすきっかけとなりました。

諸藩の財政が破綻し藩債が焦げ付く中、加島屋の資金繰りは自転車操業に。そんな中で積み上がった借入金返済の猶予を求めるハードな交渉。片や三井の実家が新政府に賭けたことを察知した浅子は、存亡の危機にある加島屋の社運を賭け新政府の資金調達に協力。

当時患っていた肺病を押しての浅子の尽力により、加島屋は辛くも大政奉還前後の危機的状況を乗り切るのでした。

長女・亀子を出産

1876年(明治9年)10月、28歳となった浅子は長女を出産し亀子と名付けられました。亀子は長じて元播州小野藩主・一柳子爵の次男の恵三と結婚。浅子の夫・新五郎没後は恵三が広岡家の家督と加島屋の経営を継ぎ、後に浅子が創業する大同生命の社長に就任しました。

浅子と新五郎がもうけた子供は亀子一人でした。その後、浅子が三井家から連れてきた腰元・小藤が「目掛」として新五郎との間に一男三女をもうけ、1888年(明治21年)に生まれた長男・松三郎は大同生命四代目社長に就任しています。

尚、明治初期頃は小藤の例にあるような「妻目掛同居」は一般的な風習で、戸籍への「目掛」の表記も認められていました。「目掛」の表記が禁じられたのは1880年(明治13年)。その18年後の1898年(明治31年)には重婚が禁止されました。

筑豊の潤野炭鉱を経営

1872年(明治5年)の新橋・横浜(桜木町)間の鉄道開業などに伴う石炭需要の急増。そしてその急増がもたらす千載一遇の商機を、市場に対する嗅覚に誰よりも秀でた浅子が見逃すはずはありませんでした。

加島屋は1884年(明治17年)、石炭販売と上海向け輸出を取り扱う広炭商店を若松(現在の北九州市)に開業。その頃、加島屋はまた筑豊(現在の飯塚市)の潤野(うるの)炭鉱を買収しました。

朝ドラ『あさが来た』の制作発表の折、ピストルを携え荒くれ男が集まる炭鉱に単身乗り込んだヒロイン像が注目を集めていましたが、その炭鉱こそが筑豊の潤野炭鉱です。

広炭商店も潤野炭鉱も代表者は夫の新五郎でしたが、浅子はそれらの経営に深く関わり、成果報酬制の前身とも言うべき制度を導入するなど経営に新機軸を打ち出し、稀代の実業家としての才覚がいよいよ発揮されることになるのです。

尚、朝ドラ『花子とアン』の石炭王・嘉納伝助の実在モデル・伊藤伝右衛門が父の伝六とともに伊岐須炭坑を開いたのは1880年(明治13年)。次いで1893年(明治26年)に開いた相田炭鉱(飯塚市)が伝右衛門が石炭事業で大成功を収めるきっかけとなりました。

加島銀行発足、広岡商店も同時に創業

1888年(明治21年)1月、浅子はかねてよりの悲願だった加島銀行を開業しました。潤野炭鉱の経営が乗り始めた頃より、当時欧米から輸入されたばかりの「銀行」に、浅子は商機と将来性を見出していました。

しかし、浅子が加島屋で銀行を手がけてみたいと切望する中、経営していた炭鉱で爆発事故が発生。多数の死傷者を出した爆発事故の損害賠償と、破壊された炭鉱の復興に要す費用は当初の予想を超えた巨額なものとなりました。

それら費用を捻出するために、加島屋の利益剰余金だけでは間に合わず、加島銀行の設立準備金も使い尽くしたことで加島銀行の開業は延期する事態に。そのような艱難辛苦を経ての加島銀行の発足は、浅子の座右の銘「九転十起」そのままの生き様を示すものでした。

成瀬仁蔵との出会いを経て日本女子大学校創立へ

1896年(明治29年)、浅子46歳の春。浅子はある人物と運命的な出会いを果たします。その人物の名は成瀬仁蔵。後に日本女子大学を創立し、我が国における女子高等教育のパイオニアとうたわれる人物です。

浅子に成瀬を引き合わせたのは加島銀行の上得意客の一人である土倉庄三郎。土倉は自分の6人の娘が入学した大阪梅花女学校の校長をつとめる成瀬が、日本の女子高等教育の理想を胸に抱いていることを知り、成瀬に浅子を紹介。

成瀬が著した『女子教育』に感銘を受けた浅子は、成瀬の悲願とする女子大学校の設立への協力を快諾。時の総理大臣・伊藤博文はじめ、大隈重信や板垣退助、西園寺公望などの重鎮たちの賛同を取り付けることに浅子は成功。

日本女子大学校創立という一大事業を浅子はリードしました。

日本女子大学校 開校

1901年(明治34年)4月20日。浅子52歳の春に、日本女子大学校は開校しました。日本女子大学校の創立に当たり、浅子が最も尽力したのは資金集めでした。

実家の小石川三井家の8代当主で浅子の義弟に当たる三井高景(たかかげ)は、浅子への協力を惜しまず、特に小石川三井家による東京目白の5500余坪の土地寄贈と5万円もの寄付は同大学校設立の機運を高めることに寄与したと言われています。

大同生命保険設立

1902年(明治35年)7月。加島屋が経営を担っていた朝日生命(現存の朝日生命保険とは別会社)、そして護国生命、北海生命の三社が合併し大同生命保険が設立されました。

1895年(明治28年)に終戦を迎えた日清戦争による戦没者への保険金支払いにより事業家たちは生命保険というサービスに注目。ほどなくして空前の生命保険会社の設立ブームが起こりました。

しかしブームに乗じて乱立した生命保険会社が提供するサービスの質は極めて低く、1901年(明治34年)に発生した経済界の大恐慌により経営難に陥る生命保険会社が続出。生命保険業界再編の流れの中で大同生命保険は設立されました。

尚、朝ドラ『あさが来た』の原案著書『小説土佐堀川』によれば、浅子が生命保険業に深い関心を示すきっかけとなったのは以下の二つの事由によるものと説明されています。

  • 融資を断られた加島屋の同業者による凶行で浅子が危篤に陥ったことが、生命と向き合うきっかけを与えた。
  • 生命保険の契約は10年、20年という長期に渡るため、銀行業と比べて財務基盤が安定すること。

夫・信五郎逝去を機に女婿の恵三に事業を譲る

1904年(明治37年)6月。浅子56歳の初夏に夫の広岡信五郎が逝去しました。享年64歳(かぞえ)。そして信五郎の逝去を機に、浅子は娘の亀子の夫・恵三に事業の一切を譲る決断を下します。

しかし浅子の実業界からの引退は単なる楽隠居ではありませんでした。その頃、浅子にはやりたいことがあったのです。それは日本の「女子教育」に尽力することでした。

そんな浅子を病魔が襲います。若い頃から気になっていた胸部のしこりが悪性の乳癌になったのです。1909年(明治42年)1月、東京帝大病院で乳癌の摘出手術を受けた浅子は「精神的覚醒」を体験し、退院後に大阪教会で洗礼を受けました。

そして1914年(大正3年)から死の前年の1918年(大正7年)までの間、毎年夏になると浅子は将来有望な女性たちを集めて御殿場二の岡にある別荘で「夏季勉強会」を開催。参加者の中には朝ドラ『花子とアン』のヒロインの実在モデル・村岡花子もいました。

尚、村岡花子が作家を目指す決意を固めたのは、御殿場二の岡に開かれた「夏季勉強会」でのことでした。

浅子逝去。享年69歳。

若い頃に患った肺病やその後の乳癌の再発はなかったものの、最晩年の浅子は腎機能が低下し衰弱の一途をたどりました。

1919年(大正8年)1月14日、浅子逝去。享年69歳。生前より「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と周囲に語り、遺言は残さなかったと伝えられています。

Sponsored Link
Sponsored Link

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする