五代才助(友厚)実在モデル『あさが来た』劇中の登場場面と史実比較

朝ドラ『あさが来た』劇中で、嫁ぎ先の家業を再建すべく実業界に身を投じるヒロイン・あさを師匠として支える人物、五代才助(友厚)。本記事では、同名の実在モデルで大阪財界の重鎮・五代友厚の生涯を劇中登場場面と対比しながらまとめています。

【1836年(天保6年)- 1860年(安政7年)】
『あさが来た』劇中であさと出会う前の五代才助(友厚)

1836年(天保6年)2月12日、五代才助(友厚、幼名は徳助)は薩摩藩士で儒者の五代秀尭の次男として生まれました。徳助14歳のとき、薩摩藩主になる以前の島津斉彬が入手した世界地図を、徳助は父の命により模写。

徳助が模写した世界地図の出来栄えに感心した島津斉彬は徳助を才助と命名。徳助は元服後、名を才助と改めました。

1857年(安政4年)、才助は薩摩藩によって長崎に派遣。海軍伝習所第二期生として航海術などを学びました。海軍伝習所第一期生だった勝麟太郎(海舟)が残留組として第二期に残ったことで、五代友厚はこの時、勝麟太郎(海舟)と出会っています。

1860年(安政7年)、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した「生麦事件」が引き金となりイギリスが鹿児島を砲撃する薩英戦争が勃発。五代友厚は優れた交渉力を発揮し、イギリスと交渉の末に薩英戦争を解決に導きました。

ここまでが『あさが来た』劇中であさと出会う以前の時代の五代才助(友厚)の歩みです。

『あさが来た』劇中で描かれる五代才助(友厚)とあさの交友関係

ところで、史実では五代友厚と広岡浅子が交流した記録はなく、劇中で描かれるヒロイン・あさと五代友厚の交友関係はすべて創作です。

上に記した歩みを経て、戊辰戦争への貢献を買われた才助は新政府の要職を歴任。下野し設立した「金銀分析所」で得た巨万の富を元手に広範囲にわたる事業に着手します。しかし自らの財閥はつくらず、財を残さず事業を残す生き方に徹し、49歳の生涯を閉じました。

以下に、朝ドラ『あさが来た』劇中での五代才助(友厚)の登場場面と史実との対比をまとめました。以下の記事にはネタバレが含まれますのでご注意ください。

第1週【1862年(文久2年)】大阪であさと出会う

drama12歳になったあさは父の忠興に連れられ姉・はつの許嫁の家を訪問。初めて訪れた大阪の路上であさは武士と激突し小競り合いとなります。その時、激突した相手が才助でした。

小競り合いの直後、才助は薩摩藩の御船奉行副役として両替商の山王寺屋を訪問。ちょうど山王寺屋を訪ねていたあさと再会します。

history才助があさと出会った(激突した)この年、才助は幕府の艦船・千歳丸に水夫として乗船し上海への渡航に成功。上海で汽船を購入しました。汽船を購入したのはは薩摩藩のためのもので、幕府のためではありませんでした。

第2週【1865年(慶応元年)】渡英中の才助からあさ宛に手紙が届く

drama加野屋への嫁入りを目前に控えたあさのもとに英国から手紙が届きます。英国の様子を記したその手紙の差出人の名は「五代才助」でした。

historyその年、才助は薩摩藩遣英使節団の一員として英国はじめヨーロッパ各地を視察しました。尚、使節団の出航はこの年の3月でしたが、劇中であさのもとに手紙が届いたのは同年2月です。ちなみに一行は翌年帰国しています。

第3週【1866年(慶応2年)】「米会所」であさと再会

drama米を商う商人たちが取引を行い米の相場が決定される「米会所」に潜入したあさは、そこで才助と再会。「米会所」の説明を才助から受けたあさは、事業への関心を募らせてゆきます。

historyその年、才助は薩摩藩の商業活動を取り仕切る御小納戸奉公格に昇進。実業家として才覚をこの頃より発揮しはじめます。

第4週【1868年(明治元年)】才助があさ留守中の加野屋を訪問

drama大阪府権判事に就任して間もない才助が洋装姿になって加野屋を訪問。あさは金策に奔走し留守にしていたため新次郎が応対。才助と新次郎がこの時はじめて出会います。

history戊辰戦争において倒幕の働きが認められた才助は、慶応4年から明治元年に改元されたこの年に新政府の参与、外国官権判事、そして大阪府権判事に就任。土佐藩士のフランス人に対する不祥事・泉州堺事件の収拾などの外交処理で交渉力を発揮します。

第5週【1869年(明治2年)】才助がカンパニー構想への協力要請

drama明治元年、加野屋を訪れた才助は、加野屋当主・正吉にカンパニー構想への協力を要請します。しかし大阪商人が団結して欧米と対等に取引するという構想は、その時の正吉がそれを理解するにはスケールがあまりにも大きすぎました。

正吉は才助の協力要請を拒否。機嫌を損ねた才助はあさと口論に発展。この口論が契機となり、あさは大阪商人の集いに引っ張り出されることになります。

そして、その翌年の明治2年。正吉はついに才助の協力要請を承諾。大阪商人たちの間でカンパニー構想への機運が高まる中、才助に横浜への異動命令が下されます。

history明治2年、才助は会計官権判事として横浜への異動が命じられるものの、そのわずか二ヶ月後に退官。下野し実業界への第一歩を踏み出しました。

第6週【1869年(明治2年)- 1872年(明治5年)】あさが鉱山を買収

drama才助は横浜に異動するもただちに退官。下野し名を才助から友厚に改め、大阪商人たちに歓迎される中、横浜から大阪に戻って来ます。

一方のあさは、加野屋の新事業として炭鉱業経営の準備を開始。ついに鉱山を手中に収め炭鉱に向かうあさに、友厚は護身用にとピストルを手渡します。

history明治2年に友厚が設立した貨幣の地金を作るための施設「金銀分析所」は莫大な利益を生み出し、この富を元手にして友厚は様々な事業を創業しました。

第7週【1872年(明治5年)】友厚のピストルがあさを窮地から救う

drama炭鉱経営をはじめたあさはたちまち困難に直面します。炭鉱夫たちが女のあさに反旗を翻しはじめたのです。そんなあさの窮地を友厚のピストルが救います。

history友厚はこの頃より、奈良県天和銅山や福島県半田銀山などで鉱山業を手がけ始め、後に鉱山王の異名を持つことになります。

第8週【1872年(明治5年)】今井家の東京進出と銀行設立準備

drama祖父・忠政の葬儀で実家に戻ったあさは、そこで友厚と再会。三井家が東京で銀行の設立準備をはじめることを聞かされたあさは、友厚から銀行の存在意義について説明を受け感銘を受けます。一方、あさの弟・久太郎は米国留学の準備をすすめます。

劇中では、友厚は今井家の銀行設立や、将来の銀行の人材育成のための久太郎の米国留学に協力する姿勢を示すように描かれています。

history一方史実では、三井組のライバルだった小野組が友厚を頼って三井組による単独の銀行設立を阻止すべく活動。友厚の間接的な圧力がかかる中、三井組は二百年の伝統を持つ呉服屋を三井家から分離。ここに三越が誕生しました。

第9週【1873年(明治6年)】友厚の恋(?)

drama劇中の友厚とあさの交友関係が創作であることは既に記しました。今週から二人の関係は史実から大きく逸脱し、友厚が募らせるあさへの友情以上の感情が描かれ始めます。尚、友厚があさに抱く恋心を劇中ではじめて暗示するのは大久保利通です。

history明治6年、友厚は「弘成館」を設立。「鉱山王」と呼ばれ始めた友厚は、大和国天和銅山、赤倉銅山、栃尾銅山、駒帰村辰砂鉱、峯谷銀山を買収し鉱山経営を展開。それぞれの鉱山を統括するための管理事務所として開設されたのが「弘成館」です。

第10週【1873年(明治6年)】三味線師匠・美和が友厚に惚れる

drama新次郎の三味線の師匠・美和がこの週より友厚に恋心を抱き始める一方で、友厚のあさへの想いを、あさの姉・はつが察しはじめます。

history「弘成館」設立によって鉱山経営は順調に拡大し、「弘成館」設立の翌年には佐渡金山、生田銀山と共に三大鉱山と並び称された半田銀山を、友厚は手中に収めました。

第11週【1786年(明治9年)】堂島に米穀取引所を開設

drama明治9年、友厚は堂島に米穀取引所を開設。禁止されていた米相場を再開させます。

明治10年、加野鉱山で落盤事故が発生。事故の収拾を図るためあさは九州の炭鉱に急行します。その際、鉱山経営を熟知する友厚があさに同行します。

history明治9年、友厚は「堂島米商会所」を開設。第3週、慶応2年に友厚とあさが再会した「米会所」は明治2年に新政府が廃止を決定。しかし明治4年に「堂島米会所」として復活し、友厚が携わった「堂島米商会所」に発展しました。

第12週【1878年(明治11年)】あさに東京への同行を求める

drama明治11年、加野炭鉱の再建に向けて活動をはじめたあさに、友厚が意外な申し出をします。友厚の上京にあさを同行させたいと言うのです。

history五代友厚の生涯を語る上で欠かせない出来事が、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の設立と初代会頭への就任です。この大阪商法会議所ならびに大阪株式取引所の設立はともに明治11年の出来事です。

【その後】

history明治12年以降に五代友厚が残した仕事は以下の通りです。

【明治12年】大阪商業講習所(現在の大阪市立大学)創設
【明治14年】大阪青銅会社(現在の住友金属工業)設立
【明治17年】大阪堺鉄道(南海鉄道)設立
【明治18年】糖尿病により死去。享年49歳

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コメント

  1. ※ 嘉樹 より:

    面白く拝見しました。

    既に、お気づきとは思いますが、冗長な表現と誤字と思われる部分がありましたのでお知らせします。

    本文
    明治元年、加野屋を訪れた才助は、加野屋当主・正吉にカンパニー構想への協力を要請します。しかし大阪商人が団結して欧米と対等に取引するという構想は、その当時の正吉がそれを理解するにはあまりにもスケールがあまりにも大きすぎました。

    –>”あまりにも”が重ねて使われているのは冗長に感じます。

    正吉は才助の協力要請を拒否、期限を損ねた才助はあさと口論に発展。この口論が契機となり、あさは大阪商人の集いに引っ張り出されることになります。

    ->期限は機嫌の誤記と思われます。

    以上

    • 朝蔵(あさぞう) より:

      コメントありがとうございます。
      ご指摘頂いた箇所、全く気づいておりませんでした。
      早速、訂正させて頂きました。
      今後とも当ブログをよろしくお願い致します。
      ありがとうございました。