べっぴんさん 子供用品店・キアリスのモデル、ファミリア

NHK連続テレビ小説(朝ドラ)『べっぴんさん』のヒロイン・坂東すみれが創業した総合子供用品店・キアリスの実在モデル「ファミリア」。本記事ではモデルとなった「ファミリア」の歴史と坂野惇子との関わりについてまとめています。

「ベビーショップ・モトヤ」開店から一年を経て独立店舗へ

坂野惇子、田村江つ子、田村光子、そして村井ミヨ子の四人の女性たちの手掛ける「ベビーショップ・モトヤ」は順調に売り上げを伸ばしていたものの、家主の「モトヤ靴店」店主・元田蓮との間にトラブルも生じるようになっていました。

とりわけ元田蓮の頭を悩ませていたのは「モトヤ靴店」の接客室を惇子たちが事務所スペースとして使い始めたことでした。

そんな中「モトヤ靴店」の並びにある小さな万年筆が店をたたむことが決定。

元田蓮はこの機を逃しませんでした。「モトヤ靴店」の間借りをやめ、独立した店を構えることを渋る惇子を元田蓮は根気よく説得し、ついに惇子は万年筆店の跡地の三坪からなる小さな独立店舗に移転。

惇子たちが「ベビーショップ・モトヤ」を開業してからちょうど一年が経った1949年(昭和24年】12月のことでした。

独立店舗を構えた直後に法人化が決定

「ベビーショップ・モトヤ」が独立店舗を構えた直後のこと。「ベビーショップ・モトヤ」や「モトヤ靴店」の並びに入居していた「レナウン・サービス・ステーション」の神戸からの撤退が決まりました。

「レナウン・サービス・ステーション」は、惇子の父・佐々木八十八が創業した「佐々木営業部」の衣料小売部門で、その経営は惇子の幼馴染・尾上清が担っていました。

「レナウン・サービス・ステーション」は大阪で成功を収めた後に神戸に進出したものの、本来は卸売業を生業とする「佐々木営業部」が小売り業にまで踏み込んで来たことが反発を招き、神戸の店舗を撤収せざるを得ない状況に追い込まれていたのです。

この状況を好機ととらえる人物がいました。惇子の夫・坂野道夫です。

道夫は惇子に提案しました。「レナウン・サービス・ステーション」が撤収した後の広い跡地に「ベビーショップ・モトヤ」を出店し、これを機に法人化(株式会社にすること)してはどうかと。

道夫の提案に「レナウン・サービス・ステーション」が入居していた建物の家主でもあった元田蓮が賛同しました。

「佐々木営業部」の社長・尾上清も、惇子が法人化によってビジネスを発展させることに賛意を示し、惇子が起業する新会社への出資を決定するのでした。

株式会社ファミリアの誕生

夫の道夫、「モトヤ靴店」の店主・元田蓮、「佐々木営業部」の社長・尾上清らに背中を押される形で惇子は「ベビーショップ・モトヤ」の法人化を決意しました。

「ベビーショップ・モトヤ」を株式会社の組織にするにあたり、惇子は新しい会社に付ける名前を考え始めます。

「ベビーショップ・モトヤ」を改め「ベビーショップ・神戸」にしてはどうかという意見が出たものの、惇子はビジネスを神戸だけで終わらせるつもりはありませんでした。

惇子が「家族」を連想させる社名を考え始めた頃のこと。

偶然に会ったフランス人から「家族」をフランス語で「ファミリア」と言うことを教わった惇子は、その言葉の持つ優しい響きをたいそう気に入り新会社の社名に決定しました。

かくして「ベビーショップ・モトヤ」は開業から一年四ヶ月で発展的に解消され、1950年(昭和25年)4月12日、新会社「株式会社ファミリア」が誕生するのでした。

誕生間もない「ファミリア」の快進撃がはじまる

当時はまだ珍しかった英語の社名も手伝い、設立間もないながらも「ファミリア」はまたたく間に世間から注目を集める存在となりました。

その頃「ファミリア」に注目しはじめていたのは、小さな子供を持った消費者だけではありませんでした。

阪急百貨店の初代社長・清水雅(まさし)はいち早く「ファミリア」の先進性に目をつけ、部下の鳥居正一郎(後の阪急百貨店社長)を通じて取り引きを要請。

1951年(昭和26年)4月。会社設立一年後に「ファミリア」は阪急百貨店内に直営店「阪急ファミリアグループ」の出店にこぎつけました。

翌年1952年(昭和27年)3月に阪急百貨店が主催した「はんきゅう・こどもショー」への出典も成功し、「ファミリア」の名は東京でも知られるようになるのでした。

そして1954年(昭和29年)4月には東京の高島屋で開催された子供服展への出展を機に悲願だった東京進出も果たし、同年10月には東京の伊勢丹でも子供服展を成功させました。

「ファミリア」に吹く逆風

阪急百貨店への直営店出店。東京進出の成功など誰の目にも順風満帆に映る「ファミリア」でしたが、その一方で逆風にさらされる場面もありました。

惇子が信じていた経理責任者の背任行為が発覚したのです。

経理責任者の不正な会計処理によって「ファミリア」の利益の多くが着服されていたことが発覚したのを機に、惇子に請われて社長職に就いていた元田蓮は社長を辞任。

惇子が社長就任を頑なに拒む中、1952年(昭和27年)10月に惇子の夫・道夫が「佐々木営業部」を退社し「ファミリア」の取締役に就任。

しかし「ファミリア」のすべてを把握してから社長に就任することを道夫は強く希望し、道夫が代表取締役社長に就任したのは1956年(昭和31年)5月のことでした。

道夫が社長に就任するまでの四年間、社長の席は空いたままの状態が続いていたのです。

尚、道夫は1985年(昭和60年)3月に社長職から身を退き会長職に就任。惇子と道夫の長女の夫・岡崎晴彦が「ファミリア」の二代目社長に就任しています。

東京初出店、海外進出、皇室御用達ブランド、そして現代

1956年(昭和31年)5月。「ファミリア」の全体を把握し終えた道夫が社長に就任した頃、「ファミリア」は東京銀座の数寄屋橋阪急に店舗を構えることで東京に初出店しました。

1963年(昭和38年)には、美智子皇太子妃殿下(当時)の第一子ご懐妊の折、皇室と取り引きのあった高島屋が出産用品を皇室に献上。

その際、高島屋は皇室献上品に「ファミリア」の商品を選定。

このことがきっかけとなり「ファミリア」は皇室御用達ブランドとなりました。

1979年(昭和51年)にはアメリカ合衆国ハワイ州ホノルルに「ファミリアUSA」を設立し、海外進出にも成功。

2015年(平成27年)4月には東京・白金台に保育園「ファミリアプリスクール」を開園し、同時期に書籍『上品な上質 ファミリアの考えるものづくり』を出版。

朝ドラ『べっぴんさん』放送開始時、「ファミリア」の店舗は北は北海道から南は鹿児島県まで35都道府県で84店舗が営業を続けています。

坂野惇子、道夫の最晩年

さて、ここまで「ファミリア」の歩みについてまとめて来ましたが、最後に「ファミリア」を創業した坂野惇子、道夫夫妻の最晩年について触れ本記事を締めくくろうと思います。

1992年(平成4年)4月15日。惇子は心筋梗塞に倒れ兵庫県西宮市武庫川町にある兵庫医科大学病院に入院しました。

病院に運び込まれた時は危篤状態に陥っていたものの奇跡的に回復し、入院の一ヶ月の5月12日には道夫との52回目の結婚記念日を祝えることが出来るほどでした。

しかし、結婚記念日の翌日より今度は道夫が体調を壊し、約三週間後の6月2日の早朝に急性呼吸不全により帰らぬ人となりました。

道夫亡き後、惇子は道夫を継いで「ファミリア」の会長職に就任。六年間、会長職を務め上げ1998年(平成10年)に会長職を退き名誉会長に就任。

その七年後の2005年(平成17年)9月24日。心不全により惇子は永眠。

享年87歳でした。

『べっぴんさん』ヒロインすみれモデル 坂野惇子:ファミリア設立後の年表

1950年(昭和25年):4月12日 ファミリア設立
1951年(昭和26年):阪急百貨店に直営店オープン
1952年(昭和27年):夫・通夫がファミリア取締役に就任
1954年(昭和29年):ファミリアが東京進出
1956年(昭和31年):夫・通夫がファミリア社長に就任
1960年(昭和35年):ファミリアが輸入業を開始
1966年(昭和41年):長女・光子が岡崎晴彦と結婚
1970年(昭和45年):スヌーピーの販売ライセンスを取得
1976年(昭和51年):銀座ファミリアオープン
1985年(昭和60年):夫・通夫がファミリア社長退任、会長に就任
1992年(平成04年):夫・通夫が死去
1998年(平成10年):惇子、ファミリア名誉会長を退任
2005年(平成17年):惇子、死去

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