べっぴんさん 野上正蔵,潔のモデル、尾上設蔵と尾上清の生涯

NHK連続テレビ小説『べっぴんさん』ヒロインの父が経営する坂東営業部の番頭・野上正蔵とその息子の潔。本記事では野上正蔵・潔親子の実在モデル、尾上設蔵と尾上清の生涯についてまとめています。

尾上設蔵の生涯

天才起業家を影で支えた名支配人・尾上設蔵

1922年(大正11年)4月12日、当時の英国皇太子・エドワード8世を乗せた御召艦レナウン(Renown)号が横浜港に到着しました。

多くの日本国民が英国皇太子の来日を喜び歓喜の声をあげて歓迎する中、英国皇太子を乗せた御召艦のレナウンという名前に注目している男がいました。

その男の名は佐々木八十八。繊維雑貨卸売業「佐々木営業部」の創業者です。

八十八は考えました。船の名前は縁起が良い。しかもレナウン号の船籍は自分が生業とする繊維の大国・英国だ。この船の名「レナウン」の商標を確保しよう。

当時、極めて珍しかったカタカナ外来語の商標登録に奔走するなど、進取の気性に富んだ起業家・佐々木八十八を支えたのが「佐々木営業部」の支配人・尾上設蔵でした。

頭脳明晰で進取の気性に富んだ尾上設蔵の仕事ぶり

1887年(明治20年)兵庫県赤穂で生まれた尾上設蔵(おのえ せつぞう)は、幼少の頃より計算能力が傑出していたため銀行に就職すべく来阪。

しかし設蔵の就職の世話をした者の勧めによって「佐々木営業部」に入社しました。

設蔵は他の何よりも働くことが好きでした。馬車馬のごとく働くことをいとわないうえに頭脳も明晰で人柄も誠実。

そんな設蔵は「佐々木営業部」の創業者・佐々木八十八にその将来性をみ込まれ、28歳のときに支配人(番頭)に大抜擢。

八十八の期待に応えるべく、設蔵は欧米式のバランスシートによる在庫管理手法を採用するなど時代の先を行く経営スタイルを「佐々木営業部」に導入し八十八を喜ばせました。

佐々木八十八に仕える生涯終わる

1923年(大正12年)創業者の八十八が大阪市東区区会議員となったのを際、設蔵は「佐々木営業部」の経営の一切を八十八から任されました。

その直後のタイミングで関東大震災が発生。

震災による不況下、問屋という問屋が手形取引を廃止し現金取り引きを取引先に求める中、設蔵率いる「佐々木営業部」だけは頑ななまでに手形取引を貫き通しました。

この姿勢が大手百貨店などからの信頼を勝ち得ることにつながります。震災からの復興がすすむほどに「佐々木営業部」の取引高も拡大の一途をたどるのでした。

その後も設蔵は、東京と大阪にそれぞれ設立した「佐々木営業部」の統合。海外子会社を設立して中国大陸に進出するなど奔走する日々が続く中、1940年(昭和15年)に死去。

享年54歳。

「佐々木営業部」の経営のすべてを任されてもなお、設蔵は「佐々木営業部」は佐々木八十八からの預かり物、佐々木と尾上家は主従関係にあると認識し、世話になった八十八への報恩を貫き通す生涯でした。

尾上清の生涯

ぼくが勉強したのは全部ミーちゃん、ハーちゃんだ

ぼくは政界、財界、官界のえらい人と話をする機会が多い。しかし、そういう人達から教えられることは少ない。ぼくが勉強したのは全部ミーちゃん、ハーちゃんだ。うちに遊びにくる他愛もないような女の子と話していると「いいこと勉強したな」と思うことが沢山ある。ミーちゃん、ハーちゃんは利害を考えないで地のままで話している。ところがえらい人達は「こんなこといえば、どう思われるか」と考えながら言葉を選んでいるから不純だ。不純なものから学ぶものは何もない。-【尾上語録】より引用

父・尾上設蔵のおおらかな教育方針のもとで育てられた尾上清は、個性的で自由奔放な生き方を貫き通し誰からも愛される経営者でした。

愛情に満ち溢れ情感豊かな清の発した言葉の数々は【尾上語録】と呼ばれ、今もなおそれら言葉の持つ輝きは色褪せることなく語り継がれています。

「佐々木営業部」入社で父親譲りの商才を発揮

1911年(明治44年)大阪の高級住宅地・帝塚山で尾上清は生まれました。

父の尾上設蔵は「佐々木営業部」に入社し、ほどなくして和歌山県生まれのトミと結婚。二人が結婚したその年に長男として生まれたのが清でした。

清は地元の住吉中学を卒業後、上京して慶應義塾高等部に進学するものの遊び人だった清は大学部進学には失敗。

ちなみに慶應義塾高等部在学中、清は卓越した商才と先見の明の片鱗を見せはじめています。その当時、清は喫茶店の将来性に注目し学生の身でありながら喫茶店を開店。喫茶店が東京などの都市部で大流行する三年も前のことでした。

さて、大学部への進学に失敗した清は、1933年(昭和8年)当時、父の設蔵が支配人をつとめていた「佐々木営業部」に丁稚として入社しました。

清は働き始めるやまたたく間に、父と同等かそれ以上の商才を発揮しはじめ丁稚としての入社でありながら、入社三年目にして常務取締役に抜擢されました。

戦時下の苦難の日々を乗り越えて

1936年(昭和11年)に常務取締役に就任。異例のスピード昇進を果たした清でしたが、その後は逆風の中を歩み続けるような日々を送ります。

1938年(昭和13年)日中戦争下で召集され中国・天津へ。
1940年(昭和15年)復員し小菅喜子と結婚。ほどなくして父・設蔵死去。
1941年(昭和16年)再び召集され熊本へ
1941年(昭和16年)12月、日本が英米との戦争に突入
1943年(昭和18年)佐々木実業に社名変更するも社員が徴収され休止状態に
1944年(昭和19年)江商への吸収合併にともない佐々木実業が消滅
1945年(昭和20年)三度目の召集により派遣された宮古島で終戦を迎える

1947年(昭和22年)艱難辛苦を乗り越えてきた清に「佐々木営業部」の創業者・佐々木八十八からミッションが下されます。「佐々木営業部」を再開させてほしいと。

八十八からの依頼を受け、清は総合商社・江商の一部門となっていた「佐々木営業部」を独立させることに成功します。

尚、この当時の清は総合商社・江商の部長職を勤めていました。

父から子に受け継がれた佐々木八十八への報恩の精神

父の設蔵が「佐々木営業部」を佐々木八十八からの預かり物ととらえ、佐々木家に仕え続けてきた姿勢と報恩の精神は清にも受け継がれていました。

終戦後間もなくの「佐々木営業部」再創業を手はじめに、親子二代で世話になった佐々木八十八への恩返しに徹する清の行動がはじまります。

そしてその清の行動は主に、八十八の愛娘で『べっぴんさん』ヒロインのモデル・坂野惇子夫婦を対象としたものでした。

惇子の夫・道夫の復員後、道夫に「佐々木営業部」への就職を強くすすめたのは清でした。

そして「佐々木営業部」の一員となった道夫を、将来の「佐々木営業部」の経営を担う幹部候補として清は手塩にかけて育てました。

また、惇子に働くこと、起業することをすすめたのも清でした。

そして惇子の小さな店舗の経営が軌道に乗り会社組織にするにあたって、惇子の新会社設立を応援し出資を決めたのも他ならぬ清でした。

尾上清の快進撃はじまる

1947年(昭和22年)「佐々木営業部」の再設立にともない、当時36歳だった清は「佐々木営業部」の社長に就任しました。

その後の清の活躍はめざましいものでした。

営業再開間もなく資金がとぼしい中にあっても設備や広告への会社の未来のための投資を積極的に行い、それら投資は後年に結実するのでした。

また先見の明にも秀でた清は時代の先端を走り抜ける施策を次々と打ち出しつつ、会社の規模を拡大させて行きました。

1951年(昭和26年)民間放送開始と同時にラジオ広告を開始
1955年(昭和30年)商号を「レナウン商事」変更
1961年(昭和36年)テレビCM「レナウン娘」が大ヒット
1962年(昭和37年)婦人既製服を取り扱う「レナウンルック」設立
1963年(昭和38年)東証二部上場
1967年(昭和42年)商号を「レナウン」変更
1968年(昭和43年)「レナウン」「レナウン工業」合併し東証一部・大証一部上場

最晩年の尾上清

生前の佐々木八十八が夢見た事業の多角化による一大レナウングループを築き上げることに成功した清は、1970年(昭和45年)社長の席を尾上俊郎に譲り代表取締役会長に就任。

その五年後の1975年(昭和50年)清は経営の一線から身を退き理事長に就任。これを機に経営の一切に関わることはありませんでした。

尚、清が経営から身を退いた前年の1974年(昭和49年)、レナウンは年商1000億円企業の仲間入りを果たしていました。

1987年(昭和62年)夏、ハワイで心臓の手術を受けるがその年の冬に悪化
1988年(昭和63年)2月9日未明、肺炎のため死去。享年76歳

尾上清死去の時点で、レナウンはグループ全体で51社を擁し、年商合計4000億円、従業員数は2万人を超える巨大グループになっていました。

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