朝ドラ『わろてんか』ヒロイン 藤岡てんモデル、吉本せいの生涯

NHK連続テレビ小説(朝ドラ)『わろてんか』のヒロイン・藤岡てんの実在モデル、吉本せい。本記事は吉本興業の創業者でもある吉本せいの生涯についてまとめています。本記事では藤岡てんの実在モデル、吉本せいの生涯を簡潔に知りたい方のために「吉本せいの生涯と略歴」を約3分で読み終わることができるようギリギリまで短い文章に編集しています。

しかし、それだけでは物足りない。吉本せいのことをもっと詳しく知りたい。そんな方のためにも、より詳しい吉本せいの仕事と生涯も下欄にまとめています。

お好みに応じてお読みください。

3分で読める吉本せいの生涯と略歴/『わろてんか』ヒロイン藤岡てんの実在モデル

吉本せいの誕生から結婚まで

明治22年(1889年)。吉本(旧姓、林)せいは米穀商を営む林豊次郎の三女として大阪の地に生まれました。

尋常小学校時代のせいは学業が優秀でした。しかし生家は裕福ではなかったため小学校卒業後すぐに大阪市内の商店に奉公に出され、18歳で荒物問屋の次男・吉本吉兵衛と結婚。

しかし、せいが吉本家に嫁いで間も無く婚家の家業は廃業してしまいます。にもかかわらず、夫の吉兵衛は家業そっちのけで芸人遊びにうつつを抜かしていました。

そんな夫にせいは提案します。それほど好きな芸人遊びをいっそのこと商売にしてしまったらどうかと。ほどなくしてせいと吉兵衛夫妻は本当に寄席を買収。

それは吉本夫婦による寄席経営が始まる瞬間でした。

吉本夫婦の寄席経営の躍進、そして夫・吉兵衛の死

吉本夫婦は、妻の商才と夫の芸への目利きを生かして大阪中の寄席を次々に手中におさめ、わずか10年ほどで大阪の芸能を牛耳る存在にまで上り詰めました。

吉本夫婦が手中におさめたのは寄席だけではありませんでした。

数多くの寄席に加えて一流の芸人たちをも吉本夫婦は引き抜いてゆきました。その中でも特筆すべきは天才落語家として名を馳せた桂春団治の引き抜きに成功したことです。

しかし、その矢先に夫・吉兵衛が死去します。

夫の死を経て芸の世界に新機軸を打ち出したせい

37歳という若さで急逝した夫・吉兵衛の死はせいにとって唐突なものでした。

しかし、夫が遺した28軒の寄席を一軒たりとも失うまいと奮起したせいは、二人の実弟・林正之助と林弘高を招くと、弟たちの協力を得ながら事業をさらに拡大。

夫が死去した8年後には夫が遺した寄席を減らすどころか47軒にまで寄席を増やすことに成功し、吉本興業合名会社を設立。せいは初代社長に就任します。

その間もせいは、民謡「安来節(やすぎぶし)」を舞台に上げて大ヒットさせ、天才漫才師コンビ「エンタツ・アチャコ」の芸によって漫才ブームを巻き起こすなど大阪の芸の世界に次々と新機軸を打ち出してゆきました。

失意の中迎えたせいの晩年

飛ぶ鳥を落とす勢いだったせいでしたが、晩年は苦難が続きました。

頼りにしていた市議会議員・辻阪信次郎の死。成功のステイタスとして手中に納めた通天閣の火災による損傷などの出来事を経てせいはしだいに経営意欲を失ってしまいます。

最晩年のせいは社長の座につきながらも、事業の運営は弟の林正之助と林弘高に任せ、会社そのものは次男の穎右に譲りわたすつもりでいました。

しかし終戦後の昭和22年(1947年)にその穎右が死去。失意の中、せいは昭和25年(1950年)に帰らぬ人となるのでした。

3分で読める吉本せいの略歴

明治22年(1889年):誕生
明治40年(1907年):吉本吉兵衛と結婚(入籍は三年後の明治43年)
明治45年(1912年):第二文芸館を買収し寄席経営を開始
明治46年(1913年):吉本興行部(後の吉本興業)設立
大正10年(1921年):稀代の天才落語家・桂春団治の引き抜きに成功
大正13年(1924年):夫・吉兵衛死去、享年37歳
昭和6年(1931年):エンタツ・アチャコ結成
昭和7年(1932年):吉本興業合名会社を設立し初代社長に就任
昭和13年(1938年):通天閣を買収
昭和18年(1943年):通天閣を解体
昭和22年(1947年):次男・穎右死去、享年24歳
昭和23年(1948年):吉本興業を株式会社化を機に社長を退任し会長に就任
昭和25年(1950年):死去、享年60歳

「わろてんか」モデル一覧/主要登場人物と関連企業 >>


以上、3分で読める吉本せいの生涯と略歴でした。吉本せいについてもっと詳しくお知りになりたい方は、これより下に更に詳しい吉本せいの生涯についてまとめてあります。

どうぞご覧ください。

もっと詳しく知る吉本せい/誕生から結婚まで

吉本せいの誕生

『わろてんか』のヒロイン・藤岡てんの実在モデル、吉本せいは、明治22年(1889年)12月5日に大阪で米穀商を営む林豊次郎・ちよの三女として生まれました。

せいの両親は五男七女に恵まれ、せいには11人の兄弟姉妹がいました。

11人の兄弟姉妹の中で、三男の正之助(明治32年(1899年)1月23日生)と四男の勝(明治40年(1907年)2月1日生、後に弘高と改名)の二人の弟は、後にせいの事業を手伝い、せいの死去後は二人とも吉本興業の社長をつとめています。

せい、奉公に出される

決して裕福とは言えないものの、実直な性格の父の経営により取引先からの信頼は厚かった米穀商で生まれ育ったせいは、学業成績が優秀だったにもかかわらず進学を断念。

尋常小学校を卒業すると大阪船場の商品に奉公に出されました。その奉公先ではこんなエピソードが残されています。

奉公先の商店は「始末屋(ケチ)」で知られた家柄でした。その商店で働く奉公人や女中たちに出すまかないの食費を節約するため、店主は漬物の悪臭を食堂に漂わせることで奉公人や女中の食がすすまぬようにしたとまで言われています。

そんな中、一計を案じたせいは生姜をご飯に乗せて匂いが気にならなくなる工夫を提案。しかし、これが店主の逆鱗に触れ大目玉を食らったと記録に残されています。

奉公先の家柄に馴染めず苦労を重ねたせいでしたが、無駄な金は一切使わないという大阪商人の考え方の基礎をせいは奉公時代に自分のものとしました。

吉兵衛との結婚、嫁いで早々に婚家の廃業

明治40年(1907年)12月、せいと吉兵衛は結婚しました。しかし二人が入籍したのはそれから二年半ほどが経過した明治43年(1910年)4月のことでした。

大阪の荒物問屋「箸吉」の二男として生まれた夫の吉兵衛は幼名を吉治郎といい、せいと入籍した翌年の明治44年(1911年)に代々伝わる当主の名「吉兵衛」を襲名しました。

ところでせいが吉兵衛に嫁いだ頃、婚家の「箸吉」の経営は窮地に陥っていました。そんな現実から逃げるかのように吉兵衛は芸人遊びに夢中になり、借金取りの対応を嫁いだばかりのせいが任されていました。

また吉兵衛の継母で、せいには姑に当たるユキの「イケズ」も苛烈なものであったと記録に残されています。

さて、本町橋詰にあった「箸吉」は市電が通ることになり、立ち退きを求められた吉本家は大阪城の近くに移転。移転を機に「箸吉」は廃業。明治42年(1909年)のことでした。

家業の廃業により収入が途絶え、夫の吉兵衛が現実逃避からますます芸人遊びに耽る中、一家を支えたのはせいの働きでした。針仕事などの内職を連日連夜行い、それでも不足する収入を補うべく始めたのが寄席のお茶子(寄席の客の案内や食事の世話をする女)でした。

このお茶子の仕事が、せいと寄席経営の世界との出会いでした。

せいと吉兵衛、二男六女の子供をもうけるが・・・

「箸吉」廃業の翌年に当たる明治43年(1910年)せいは吉兵衛との間に長女が誕生。

その後、せいは吉兵衛との間に二男六女の8人の子供をもうけたものの、うち一男四女の5人はいずれも10歳までに夭折。溺愛した二男の泰典も20代の若さで死去しています。

二男:泰之助、泰典
六女:貴代子、千代子、峯子、吉子、幸子、邦子

下記に二男六女の生年月日をまとめました。

貴代子 明治43年(1910年)11月6日 10歳で死亡
千代子 明治44年(1911年)11月7日 生後十日で死亡
峯子 大正3年(1914年)1月14日
吉子 大正4年(1915年)4月12日 一歳になる直前に死亡
泰之助 大正5年(1916年)12月1日 一歳で死亡
幸子 大正9年(1920年)9月3日
邦子 大正11年(1922年)7月6日
泰典 大正12年(1923年)10月26日 昭和18年穎右(えいすけ)に改名 昭和22年死去

もっと詳しく知る吉本せい/寄席経営をはじめる

「いっそご自分で寄席を始めはったら?」

嫁ぎ先の家業であった「箸吉」の廃業により一家を支える立場に立たされたせいでしたが、内職やお茶子の仕事だけで家族を食べさせてゆくことは出来ませんでした。

そんな中、せいは芸人遊び三昧の吉兵衛に提案します。それほど芸事が好きならば、寄席を生業としてしまってはどうかと。

その後のせいの行動は迅速でした。

家業の「箸吉」が廃業した三年後の明治45年(1912年)4月。せいは大阪天満宮近くの寄席小屋・第二文藝館の経営権を買収。買収のための資金は、せいが自分の実家に頭を下げるなどして調達したものでした。

その翌年の大正2年(1913年)1月、せいと吉兵衛は買収した第二文藝館に「吉本興行部」の看板を掲げて寄席興行を開席。「吉本興行」発足の瞬間でした。

なお、せいと吉兵衛がこの時に買収した第二文藝館の場所は、現在の天満天神繁昌亭の真向かいのあたりです。

せいが重ねた経営の工夫

せいと吉兵衛が買収した第二文藝館は、当時の大阪の繁華街に位置していたとは言え「端席」と呼ばれる小規模な寄席でした。

当時、15銭の入場料が相場であった寄席の世界にあって、小規模で且つ格も低かった第二文藝館は相場の三分の一の5銭の入場料しか取ることが出来ません。

しかし、冷やし飴などの飲み物を寄席の客だけでなく寄席の前を通る通行人にまで販売したり、寄席の客にはのどの乾くような菓子を売ることで飲み物の売り上げを伸ばしたりと、せいは生来の商才を発揮し寄席経営を切り盛りして行きました。

また、ほとんどの興行主が一つの寄席だけで経営を行っていた中、せいと吉兵衛は利益の再投資を積極的に行いました。

第二文藝館を買収した翌々年の大正3年(1914年)には福島の竜寅館。続いて天神橋五丁目の都座、松島の芦辺館を買収。

複数の寄席を経営することで、せいと吉兵衛は芸人の世界への影響力を強めて行きました。

経営に女性らしさも発揮したせい

一方でせいは、女性らしさも発揮して芸人たちの心を巧みにつかむことに成功します。

当時「席亭」と呼ばれた寄席の経営者は、芸人たちにとっては自分の生殺与奪の権をにぎるような恐るべき存在でした。

万が一「席亭」の逆鱗に触れるようなことがあれば芸人たちは一夜にして仕事を失うため、芸人たちは「席亭」の顔色をうかがいつつ常に戦々恐々としていたのです。

そんな中にあってせいは、女性ならではのやわらかさによって芸人たちから慕われ、せいを母親のように慕う芸人たちはいつしかせいに忠誠を誓うようになるのでした。

せいは女性らしさを接客にも発揮しました。

寄席の間に、せいは客から預かった下駄や靴ををキレイに磨き上げ、その細やかなサービスは客の心をつかみせいの良い評判が拡大したのです。

岡田政太郎率いる「浪花落語反対派」との提携

せいと吉兵衛が短期間のうちに成功を収めることが出来た理由の一つに、手を組んだ相手の選択の確かさに助けられたことも挙げられます。

せいと吉兵衛が芸事の世界に参入した頃、それまで上方落語の主流をなしていた流派「桂派(かつらは)」は3代目の文枝の死去にともない衰退しはじめていました。

「桂派」と対立を続けていた「三友派(さんゆうは)」も衰退をはじめる中、勢力を伸ばしつつあったのは上本町「富貴席」席亭・岡田政太郎が率いる「浪花落語反対派」でした。

「浪花落語反対派」は、二流の落語家を積極的に集めつつ、軽口、物まね、剣舞、曲芸、義太夫、女講談などの「色物」と呼ばれる興行を展開。

従来の型にはまらぬにぎやかな興行が人気を集めた「浪花落語反対派」。その一派を率いた岡田政太郎と、せいと吉兵衛は手を組んでいたのです。

もっと詳しく知る吉本せい/急成長する吉本花月と夫の死

吉本花月の大躍進

「桂派」と「三友派」が対立と和解を繰り返しながらともに衰退の一途をたどる中、「浪花落語反対派」の躍進は続いていました。

一方のせいと吉兵衛も複数の寄席を手中に収め順調に成長を続けてはいたものの、二人が経営する寄席はいずれも端席と呼ばれる小規模で格も低いものばかりでした。

そんな中、せいと吉兵衛はついに悲願であった一流の寄席を買収します。「桂派」の拠点とも言うべき法善寺の近くの金沢席を「桂派」崩壊の機に手中に収めたのです。

大正7年(1918年)のことでした。

せいと吉兵衛はこの金沢席を「南地花月」に改名。そして他の寄席も「天満花月」「福島花月」「天神橋花月」「松島花月」とすべての寄席に「花月」を付けた名称に改名。

さて、「桂派」と「三友派」がともに崩壊する中で一人勝ちしていた「浪花落語反対派」を率いる岡田政太郎が大正9年(1920年)に急死します。

岡田政太郎急逝によりついに「浪花落語反対派」も崩壊。大阪の落語の組織、そして寄席の多くがせいと吉兵衛が率いる吉本花月の傘下に収まるのでした。

大阪を代表する天才落語家・桂春団治の引き抜きに成功

大阪の多くの寄席と芸人たちを統括出来たせいと吉兵衛でしたが、吉本の名と地位を盤石なものにした数々の出来事の中でも特筆すべきは、稀代の天才落語家・桂春団治(かつら はるだんじ、1878年-1934年)の引き抜きに成功したことです。

桂春団治の引き抜きがせいと吉兵衛にとってどれほどの大事件だったかは、その引き抜きにあたっての金銭的な条件を見れば一目瞭然です。

桂春団治を引き抜いた当時、サラリーマンの月給はおおよそ40円でした。そんな中、引き抜きの条件として桂春団治に提示された月給は700円。加えて20,000円の前貸金までもが支給されています。破格の待遇です。

現在の貨幣価値に換算したら月給は700万円。前渡金が2億円ほどでしょうか。

さて、せいと吉兵衛がようやく傘下におさめた一流の寄席・金沢席あらため「南地花月」で、桂春団治の初席が披露されました。時は大正10年(1921年)。せいと吉兵衛が一流の寄席と一流の芸人の両方を手に入れた瞬間です。

しかし、せいと吉兵衛は桂春団治の破天荒な行動に度々振り回されました。

こんなエピソードが記録に残されています。

桂春団治との契約の中で、桂春団治のラジオ出演は固く禁じられていたものの桂春団治はせいと吉兵衛に無断でラジオ番組に出演し落語を披露。

ラジオを通じて桂春団治の落語が無料で聴けるとあっては寄席に客が集まらなくなる。せいと吉兵衛は激怒し桂春団治の財産差し押さえまで行ったものの、結果として桂春団治のラジオ出演直後より寄席に客が殺到。

せいと吉兵衛、とりわけせいがマスコミの力を深く理解し、その後の吉本興業のマスコミ活用術の礎となったのがこの時の騒動だったと言われています。

さて、せいと吉兵衛が桂春団治の引き抜きに成功した翌年の大正11年(1922年)。せいと吉兵衛が率いる花月連は、関西そして東京と名古屋に全部で28軒の寄席を所有する大所帯となっていました。

関東大震災直後に東京の芸人たちを鼓舞したせい

大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生。

この地震により、せいと吉兵衛が東京に所有していた寄席は全壊。東京の寄席を拠点に活動していた多くの芸人たちも住まいを失いました。

東京の惨状が大阪に伝わるや、せいは直ちに動き始めました。

その頃、せいの仕事を手伝っていたせいの実弟・林正之助らを大量の救援物資とともに東京に派遣。東京の芸人たちを励ましました。

ほどなくして、東京の寄席を失った芸人たちが続々と大阪にやって来ました。

大阪では滅多に聴くことが出来ない東京の芸人たちの落語が聴けるとあって、せいと吉兵衛が率いる花月連の関西の寄席は大盛況。

また東京の芸人たちはせいの救援活動に恩義を感じ、花月連の名は芸人たちの間でも聴衆の間でもますます盤石なものとなるのでした。

夫・吉兵衛との死別

大正13年(1924年)2月12日。夫の吉兵衛が脳溢血により急逝、享年37歳。夫を亡くしたその時、せいは34歳。せいと吉兵衛が、規模も小さく格も低い端席を手に入れてから12年の歳月が経っていました。

その12年の間に吉兵衛は、大阪、京都、神戸、名古屋、そして東京の五都市に28軒もの寄席を手中に収めていました。

この28軒の寄席を一軒たりとも失うまい。

吉兵衛が亡くなった時、そう心に誓ったせいは吉兵衛との死別後も寄席を失うどころか、寄席の数を順調に増やし続けてゆきました。

昭和7年(1932年)。吉本興業合名会社が設立され、せいは初代社長に就任。その時、せい率いる吉本興業は47軒もの寄席を有するまでに成長するのでした。

もっと詳しく知る吉本せい/頂点を目指す

二人の実弟・林正之助と林弘高

せいと吉兵衛が初となる寄席買収をした四年後の大正6年(1917年)。せいは当時18歳だった実弟の林正之助を吉本興行部に雇い入れました。

また、夫の吉兵衛逝去から四年が経った昭和3年(1928年)には、こちらもせいの実弟で林正之助より8歳年下の林弘高を吉本興行部に引き入れ、東京の営業責任者を一任。

二人の実弟を吉本興行部の幹部に据え、せいは吉本興行部の拡大を図りました。

なお、林正之助と林弘高は二人とも、後に吉本興行の社長に就任しています。せい、そして林正之助と林弘高それぞれの社長就任期間は以下の通りです。

吉本せい:昭和7年 – 昭和23年(1932年 – 1948年)
林正之助:昭和23年 – 昭和38年(1948年 – 1963年)
林弘高:昭和38年 – 昭和45年(1963年 – 1970年)
林正之助:昭和45年 – 昭和48年(1970年 – 1973年)

「安来節(やすぎぶし)」と「萬歳(のちの漫才)」の流行を仕掛ける

大正12年(1923年)に発生した関東大震災にともなう関東在住者の大阪への転居により大阪市の人口は急増。大阪市は日本で最大の都市となり、大大阪時代が到来しました。

そんな中、大阪の街中には近代建築が立ち並ぶようになり、モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)や「文化」という言葉が流行。

震災により壊滅した東京も近代建築により再生される中、サラリーマンが文化的ともてはやされ、男性は和装を脱ぎ捨て洋装を好むようになりました。

そんな大きな時代の変化の中で人々の好みもまた変わりつつあることを、せいは決して見逃しませんでした。

その頃、滑稽な「どじょう踊り」で知られる島根県安来市の民謡「安来節(やすぎぶし)」をせいの実弟・林正之助が舞台に上げ大ヒット。

その「安来節」と一緒に林正之助が仕掛けた現代の漫才の前身「萬歳」が、時代の流行に乗る庶民の心を捉えました。

「萬歳」とは日本の伝統芸能の一つで、二人ひと組で行う正月の言祝ぎの芸。林正之助は伝統的な「萬歳」から祝祭的要素を抜き去り、庶民の日常の話題や会話を芸の中に織り込んだところ「安来節」を超える流行となります。

伝統にこだわる落語家たちが反発する中、せいは「萬歳」を「漫才」と改め、吉本興行部の主要な芸の一つに育てあげていったのです。

エンタツ・アチャコ

その活動期間わずか三年九ヶ月ながら日本一の天才漫才師コンビと謳われた「エンタツ・アチャコ」の結成を仕掛けたのも吉本興行部でした。

花菱アチャコは明治30年(1897年)大阪生まれ。新派の役者から喜劇に転じ、大正15年(1926年)吉本の芸人となりました。

その相方で、「読まない雑誌はなかった」と言われインテリとして知られていた横山エンタツ(本名:石田正見)は明治29年(1896年)は兵庫県生まれ。

横山太郎という芸名で芝居や喜劇の舞台を踏んだ後、漫才の世界に入りエンタツに改名。エンタツの名は煙突(大阪でエンタツと発音)のように長身だったことに由来します。

エンタツは昭和4年(1929年)に当時としては珍しかったアメリカ巡業に挑戦。エンタツがアメリカで得た知見を欲したせいは、エンタツ帰国後ただちに接触をはかりました。

エンタツの引き抜きを試みる吉本興行部に対してエンタツが要求した条件は、芸には一切口出しをせぬこと。そして花菱アチャコとのコンビを結成することでした。

かくして昭和6年(1931年)1月、「エンタツ・アチャコ」のコンビが結成。「エンタツ・アチャコ」は芸の世界に新機軸を次々と打ち出し一世を風靡することになります。

「エンタツ・アチャコ」コンビ結成の翌年、せいは吉本興行部を改め吉本興行合名会社を設立。また伝統的な「萬歳」の表示が現在の「漫才」に改められたのもこの頃のことです。

漫才史に残る『早慶戦』ラジオ実況中継、漫才作家の誕生など快進撃が続く「エンタツ・アチャコ」でしたが、昭和9年(1934年)8月に花菱アチャコが中耳炎で入院。

この入院を機にせいは「エンタツ・アチャコ」のコンビを解消させます。昭和9年(1934年)10月のことでした。

なお、「エンタツ・アチャコ」のコンビの芸をもう一度観たいというファンの声に応える形で、昭和11年(1936年)「エンタツ・アチャコ」のコンビは映画に共演。

「エンタツ・アチャコ」映画限定共演、吉本興業とP.C.L.映画製作所(後に東宝と合併)の初の提携映画となった『あきれた連中』は大ヒットするのでした。

通天閣を買収

桂春団治という落語家の巨匠中の巨匠を傘下におさめ、エンタツ・アチャコのコンビによって空前の漫才ブームを引き起こし一世を風靡した吉本興業でしたが、せいは満足できませんでした。

誰の目にもわかる成功のシンボルが欲しかったのです。

そんなせいが、成功のシンボルとしてはこれ以上に望めないものをついに手に入れます。それは通天閣です。

吉本興業合名会社を設立し、せいが初代社長に就任した六年後の昭和13年(1938年)。当時の大阪を代表する建築物だった通天閣をせいは買収したのです。

しかしせいの成功のシンボルのような通天閣は、皮肉にも最晩年のせいを待ち受ける困難な日々を象徴するかのような運命をたどることになるのです。

もっと詳しく知る吉本せい/晩年

辻阪信次郎の死

吉本せいを実在モデルとした主人公の生涯を描いた『花のれん』という小説があります。

『白い巨塔』や『華麗なる一族』など骨太な小説で知られる山崎豊子さんの初期作品もである『花のれん』の物語の中盤以降、夫を亡くした主人公が恋心を抱く男性が登場します。

その男性の名は伊藤友衛、職業は市会議員。

そして、その伊藤友衛には実在モデルが存在します。名は辻阪信次郎。

辻阪信次郎は明治18年(1885年)1月生まれ。複数の会社の社長や役員をつとめ大阪市議や大阪府議の当選実績を持つ大阪財界の重鎮です。

せいが辻阪信次郎に対して実際に恋心を抱いたか否かは定かではありません。

しかし大阪市議の肩書きを持つこの人物を、せいが会社経営者として頼りにしていたことは想像するに難くありません。

この辻阪信次郎が疑獄事件に巻き込まれたのです。昭和10年(1935年)のことでした。

当時、大阪府議会議長の座にあった辻阪信次郎が贈賄の疑いで召喚され、辻阪信次郎と深い関わりのあったせいも家宅捜査を受けた後に召喚。

そんな中、昭和11年(1936年)に辻阪信次郎は獄中死を遂げました。

この一連の騒動を経た後も、せいは吉本興業の社長の座についていたものの経営の最前線からの事実上の引退に近い状態であったと伝えられています。

新興キネマ社との引き抜き合戦、通天閣の解体

昭和14年(1936年)2月。せいの実弟・林正之助が吉本興業に籍を置いたまま東宝の社外取締役に就任しました。

このことが吉本興業を思わぬトラブルに巻き込みます。

当時の映画業界に従事する映画監督や映画俳優たちは、東宝や松竹などいずれかの映画会社に所属していました。

そんな状況下、東方と松竹が俳優の熾烈な引き抜き合戦を展開していたのです。そのさなかに林正之助が東宝の取締役に就いたことが松竹を刺激しました。

松竹の傘下にあった新興キネマ社が札束攻勢により吉本興業の芸人たちの引き抜きにかかってきたのです。

また、新興キネマ社はせいが思いもよらなかった斬新な手法を駆使して興業を展開。常に時代の先端を走っていたせいが、ついに時代に追い抜かれる瞬間でした。

そして話は前後しますが、この新興キネマ社との間で勃発した芸人の引き抜き合戦騒動の前年に当たる昭和13年(1938年)に、せいは通天閣を買収しています。

しかし、その五年後の昭和18年(1943年)1月に通天閣に隣接する映画館で火災が発生。

その火災によって脚部に大きなダメージを受けたことで、通天閣は建築物としの強度を保てなくなってしまいました。

この事故を機に通天閣は解体され、解体後の鉄材は軍需資材として大阪府に献納。せいの成功のシンボルだった通天閣はこうしてその姿を消すのでした。

次男・穎右の死とせいの最晩年

辻阪信次郎の死。手放さざるを得なくなった通天閣。一連の出来事を経てせいは日増しに吉本興業の経営意欲を失ってゆきました。

そんな中で迎えた昭和20年(1945年)8月、終戦。

その頃、すでに吉本興業の経営は実弟・林正之助の手に委ねられていましたが、せいは会社という遺産を次男の穎右(えいすけ、泰典より改名)に相続するつもりでした。

しかし穎右は、せいの反対を無視して女優・笠置シズ子との恋におぼれた末に、昭和22年(1947年)に24歳の若さで病死。

次男に先立たれた失意のせいは、その三年後の昭和25年(1950年)3月14日に60年の生涯を終えるのでした。

以上、吉本せいの生涯でした。

リアルの吉本せいの最晩年は決して幸福なものではなかったようですが、朝ドラ化された物語は、戦後すべてを失ったヒロインが焼け跡の中で再起を誓うという明るく力強い結末を迎えることになるようです。

「わろてんか」モデル一覧/主要登場人物と関連企業 >>

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いつも、当ブログ『朝ドラPLUS』をご覧頂き誠にありがとうございます。当ブログでは、誤記、誤変換、事実誤認をなくすべく努めておりますが、もし文中に誤りや表現の不明な点がございましたら、ご指摘頂けますと幸甚に存じます。今後とも『朝ドラPLUS』をよろしくお願い致します。ありがとうございました。


4 Responses to “朝ドラ『わろてんか』ヒロイン 藤岡てんモデル、吉本せいの生涯”

  1. えびすこ より:

    しかし、考えたんですが朝ドラのヒロインが30歳前後の人ではダメなんでしょうかね?前例があるのでできないことではないです。
    「わろてんか」は主人公の人物像・経歴を考慮すると30歳前後の女優の方がいいかなと思っていました。
    「あまちゃん」の様に取り上げる時期が主人公が20歳前後の年齢の時期だけなら20歳そこそこでも大丈夫です。
    例えば「花子とアン」や「あさが来た」、来週で終わる「べっぴんさん」の様なスタイルの番組の場合はヒロインが20歳そこそこでは、主人公がある程度年を取ってからの時期以降は年齢相応に見えにくいです。これは中年俳優が主演を務める大河ドラマと反対の発想になります。
    朝ドラの場合は主演が30歳前後だと主人公が若い時は設定年齢よりやや老けて見えると思いますが、中年になるとちょうどよく見えますね。

    • 朝蔵(あさぞう) より:

      コメントありがとうございます。

      > 30歳前後の女優

      女優さんの体力的な問題もあるのかと思います。撮影期間を伸ばして一日あたりの仕事量を減らせば乗り切れるかも知れませんが、今度は制作コストの問題が出てきます。

  2. えびすこ より:

    今週ヒロインが葵わかなさんに決まりましたね。
    30歳前後の女優さんの起用を予想していましたが10代の人の起用は予想外。
    今後(2018年度以降)を考えると昭和生まれの女優が、再度朝ドラヒロインになれるのはあと1人だけになる可能性が高いですね。

    葵さんは平成10年生まれとのことで新世代女優と言う事になりますね。
    子役が主役級の番組を除くと男女問わず、「わろてんか」が平成10年代生まれの俳優主演作ではNHK初めての番組かも?

    • 朝蔵(あさぞう) より:

      コメントありがとうございます。

      > 平成10年代生まれの俳優主演作

      芳根京子さんがギリギリ平成9年生まれなんですね。平成10年なんて昨日のようです。

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