風、薫る 第3週「」予習レビューとあらすじ
NHK連続テレビ小説(朝ドラ)『風、薫る』
2023年4月13日 〜 4月17日放送
直美が鹿鳴館で仕事を得る
『瑞穂屋』で働き始めたりんは外国人客が多いことから英語の勉強を開始。生きるためには何でもすると語るりんの言葉を聞いた直美はある行動に出ました。
ある日、直美は一芝居打つことで大山捨松に近づき、鹿鳴館でのメイドの仕事を獲得。捨松は直美に鹿鳴館をうまく使えと助言しました。
身分を偽る直美
直美は鹿鳴館でアメリカ帰りの海軍中尉・小日向栄介と出会いました。自分は士族の娘だと偽る直美は、小日向から交際を申し込まれました。
直美は自分の身分を偽ったまま小日向の申し出を受け入れました。直美はまた、捨松に対しても身分を偽ったままでした。
美津と安が上京
ある日、美津と安がりんの元を訪ねてきました。りんの婚家だった奥田家からの仕送りが打ち切られたことで、美津と安は東京にやって来たのです。
美津は『瑞穂屋』の経営者・清水卯三郎と意気投合。『瑞穂屋』の箏を借り、箏を教える仕事を始めました。
風、薫る|感想あらすじネタバレトップページ
今週の展開
11: 4/13(月)
12: 4/14(火)
13: 4/15(水)
14: 4/16(木)
15: 4/17(金)
予習レビューと史実のリアルエピソード
今週は直美ちゃんが大山捨松に接近します。
直美ちゃんが大山捨松に接近するというエピソードは創作と思われますが、大山捨松は実在した人物です。
今週の予習レビュー欄では大山捨松についてまとてみました。
大山捨松
大山捨松(おおやますてまつ)は、1860年(安政7年)に会津若松で生まれた日本の華族であり、教育者です。
旧姓は山川、幼名はさき、のちに咲子と呼ばれました。
日本最初の女子留学生の一人であり、大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性でもあります。
後に元老となる大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育や女子教育の発展に尽力しました。
戦火の中で育った幼少期
捨松の人生は、幼い頃から激動の時代とともにありました。
会津藩国家老・山川尚江重固の末娘として生まれましたが、父はすでに亡く、祖父の兵衛重英に育てられました。
重英は会津藩の財政再建に貢献し、新しい医学や兵器にも理解を示す開明的な人物でした。
しかし、1868年(慶応4年)の会津戦争が一家の運命を一変させます。
数え8歳の捨松は家族とともに籠城し、弾薬運搬を手伝いました。
ある日、食事中の部屋に砲弾が落ち、義姉トセが重傷を負って亡くなるという悲劇も経験しています。
幼いながらも戦争の苛烈さを身に刻んだ少女時代でした。
アメリカへの官費留学
1871年(明治4年)、北海道開拓使の黒田清隆の構想により、男女若干名の官費留学生がアメリカへ派遣。
当時、女子が高等教育を受けること自体が稀な時代でしたが、満11歳の捨松は再募集に応募し、見事に選抜されました。
出発に際し、母えんは懐剣を手渡し、「今生では二度と会えないつもりで、お前の帰りを待っている」と語り、「捨松」と改名させます。
この覚悟が、その後の彼女の人生を象徴しているように思われます。
「ザ・トリオ」としての青春
アメリカでは、捨松はコネチカット州ニューヘイブンの牧師レナード・ベーコン家に寄宿し英語を習得。
永井しげ、津田うめとともに「ザ・トリオ」と呼ばれ、異文化の中で互いに支え合いながら成長していきます。
その後、名門ヴァッサー大学に進学し、英文学を専攻。
学業は極めて優秀で、学級委員長を務め、学内誌にも寄稿しました。
1882年(明治15年)、学年3番目の成績で卒業し「偉大な名誉(magna cum laude)」の称号を得ます。
卒業論文をもとにした講演は、ニューヨーク・タイムズでも高く評価されました。
さらに、アメリカ赤十字社に関心を持ち、卒業後は病院で看護に従事し、看護婦の免許も取得しています。
帰国後の挫折と決断
1882年(明治15年)、捨松は11年ぶりに帰国しますが、日本政府は彼女に適切な職を与えませんでした。
日本語もほとんど忘れており、専門職にも就けず、理想と現実の壁に直面します。
私塾設立を試みるも、兄の反対で断念。
東京女子師範学校からの打診も、日本語での授業準備が間に合わず辞退せざるを得ませんでした。
また、当時としては「婚期を逃した」年齢にあり、周囲の視線にも悩まされます。
大山巌との恋愛結婚
そんな折、後妻を探していた大山巌と出会います。フランス語で会話が弾んだことをきっかけに交際が始まり、わずか3か月で結婚を決意しました。
1883年(明治16年)に婚儀が行われ、鹿鳴館で盛大な披露宴が開かれます。
会津と薩摩という旧敵同士の結婚は周囲の反発を招きましたが、捨松は自らの信念を貫きました。
「鹿鳴館の花」と慈善活動
鹿鳴館では、英・仏・独語を操り、堂々と社交をこなす姿が称賛され、「鹿鳴館の花」と呼ばれました。しかし彼女の真価は社交だけにとどまりません。
有志共立東京病院を訪れた際、看護婦がいない現状に衝撃を受け、日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を主催。
集まった1万6000円を寄付し、後の看護婦教育所設立に貢献します。
また、日本赤十字篤志婦人会の発起人となり、日清・日露戦争時には看護活動や寄付金集めに奔走。
アメリカの新聞に投稿し、日本への理解を促す役割も果たしました。
女子教育への情熱
結婚により教壇に立つ夢は叶いませんでしたが、女子教育への支援は生涯続けました。
華族女学校の設立準備に関わり、のちには津田梅子の女子英学塾を全面的に支援。
資金募集や運営に深く関与し、津田の理想の学校づくりを支えました。
家庭と晩年
大山巌との間に2男1女をもうけ、先妻の子どもたちも含めた大家族を支えました。
不動産運用にも手腕を発揮し、大山家の財産管理を担います。
長男を若くして失う悲しみも経験しましたが、晩年まで気丈に生き抜きます。
1919年(大正8年)、津田塾の混乱を収めるため奔走する中でスペインかぜに罹患し、58歳で逝去しました。
風、薫る|感想あらすじネタバレトップページ









