2024/3/7(木)第23週「マミーのマミーや」
あらすじ
スズ子が倉庫で梅吉の写真を見ている間に、愛子はこっそりと梅吉が寝ている部屋に入って行きました。梅吉は愛子を招き入れると、枕元に常に置いておいたカメラを使って愛子の写真を撮りました。
そんな中、往診に来た医師がスズ子たちに、梅吉は今日明日が山だと告げました。そこでスズ子は、寝ている梅吉に語りかけました。実は自分は梅吉とツヤと血のつながりがないことを知っていた。何故、話してくれなかったのかと。
スズ子の問いかけに梅吉は答えました。スズ子は本当の子供だ。血のつながりがないことは言う必要がないから言わなかったのだと。その言葉を聞かされたスズ子は、梅吉とツヤの優しさに感謝しました。
一方の梅吉も、知らないフリをし自分たちを親にさせてくれたことをスズ子に感謝しました。そして梅吉はスズ子に『東京ブギウギ』の替え歌である『父ちゃんブギ』をリクエスト。スズ子と梅吉は『父ちゃんブギ』を一緒に歌うのでした。
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感想
梅吉さんの天職
前回も梅吉さんが生前に撮影した写真に関する描写がありましたが、今回はさらに詳しい描写が・・・
梅吉さん、天職に出会ったんですね。
思えば梅吉さんとツヤさんが駆け落ちしたころ、梅吉さんが目指していたのは俳優でした。
その後、ツヤさんと結婚してからは映画の脚本家が梅吉さんが目指した職業。
スズ子ちゃんが成長後にも、一時期、映画の脚本を手がける一幕がありました。
俳優と映画の脚本家。
いずれの職業も、人を楽しませる仕事です。
そして人を楽しませることは梅吉さんの天性でもありました。
銭湯という商売は、人を楽しませることが求められるような商売ではありません。
だから銭湯経営当時、第三者の目には梅吉さんは遊んでいたようにしか見えませんでした。
常連客を楽しませるのは梅吉さんの遊び、あるいは趣味。
そんなふうにしか見えませんでした。
しかし、今にして思うと、あれは梅吉さんなりの真剣な仕事だったのかもしれません。
人を楽しませることを仕事と考える。
そんな梅吉さんの考え方は、香川に帰ってから始めた写真館という商売とは相性がすこぶる良かった。
その結果、写真館を繁盛させた。
そして、楽しすぎる写真館にお客さんが集まれば集まるほど、梅吉さんは商売を超えて人気者に。
水着の女性を撮影した写真を商売にしたところは良い意味でも悪い意味でも、いかにも梅吉さんらしい。
そして、水着の女性の写真販売では吊し上げられはしたものの、一方で許容もされていたらしい。
梅吉さんがどれだけ愛されていたのか。
天職とも出会い、人々からも愛され、梅吉さんの人生は間もなく終わります。
梅吉さんの振り返り
今週の後半は梅吉さんが「主役」です。
そこで、香川に帰る前後の梅吉さんを振り返ってみました。
昭和16年(1941年)、六郎くんが戦死。
同年12月8日に米英との開戦。
その年の暮れ、梅吉さんは香川へ帰りました。
梅吉さんが香川へ帰ったのは、幼馴染みから繊維工場を手伝ってほしいと言われたから。
あのころ、梅吉さんはツヤさんを亡くした悲しみから立ち直れずにいました。
上京してからの梅吉さんは壊れっぱなしでしたが、六郎くんの戦死の直後から自分を見つめ直すようになりました。
物資不足でお酒に溺れることができないという事情も、梅吉さんが自分を見つめ直すことになった理由の一つかもしれません。
しかし、今にして思えば壊れっぱなしに見えながらも、梅吉さんなりにどうやったら立ち直れるのかもがいていたような気がします。
さて、自分を見つめ直し立ち直りたいと考え始めた梅吉さん。
しかし東京でスズ子ちゃんの厄介になっていては、自分はいつまでも立ち直れない。
東京でスズ子ちゃんには歌があるが、自分には東京には何もない。
残されているのは香川だけ。
そう考えて梅吉さんは生まれ故郷に帰る決断を下しました。
梅吉さんの帰郷を最初のうちスズ子ちゃんは反対しましたが、梅吉さんは下した決断を変えることはありませんでした。
あのときの決意の確かさが梅吉さんを救いました。
一時は壊れてしまった梅吉さんでしたが、最期の幸福をつかんだのは他ならぬ梅吉さんの強い意志だったんだなと改めて思いました。
予習レビューと史実のリアルエピソード
笠置シヅ子さんの凱旋公演
ドラマの中では再現されないようですが、史実では笠置シヅ子さんは香川県の養父の要請によって、生まれ故郷での凱旋コンサートを行なっています。
梅吉さんの実在モデル・亀井音吉さんは奥様を亡くした後に上京。
東京の笠置シヅ子さんの家に身を寄せていましたが、日に日に空襲が激しくなる中、空襲を避けるために生まれ故郷の香川県へ帰郷。
戦後も香川県に住み続けていた亀井音吉さんが笠置シヅ子さんの凱旋公演を依頼。
昭和24年(1949年)4月11、12日に高松東宝で。
昭和24年(1949年)4月15日に引田町の朝日座で。
昭和24年(1949年)4月23、24日に再び高松東宝で。
凱旋公演が行われました。
なお、亀井音吉さんが暮らす引田町(現在の東かがわ市の東端)で行われた凱旋公演は素人が企画した手作りの公演でした。
娘を自慢する亀井音吉さんと仲間たちの間で、いつのまにか笠置シヅ子さんの凱旋公演の企画が浮上。
公演会場となった旭座には楽器がなかったため、近所の小学校からピアノを借りて調達。
そんな素人運営ではありましたが、当時は笠置シヅ子さんの人気の絶頂期。
会場となった引田町の朝日座は、この公演によって1日の入場者記録を塗り替えたとのことです。
なお、それまでの1日の入場記録は700名。
笠置シヅ子さんの凱旋公演は昼夜行われ合計で2500名。
当時、引田町の人口は7300人。
全人口の三分の一強が凱旋公演に集まった計算になります。
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なんで東京ブギのライブシーンが入ったんだろうと思ってましたが、今日の話を演出のためだったんですね
感心しながら感動しちゃいました
あきまへん、15分間泣きっぱなしや。
スカーレットのお父ちゃんが亡くなる回も永久保存にしたけれど、
今回も永久保存決定。
梅吉さん、あの亀をどこかしら六郎君になぞらえている。「父ちゃんブギウギ」なかなか頓智が効いて、市に間際まで、梅吉さん自分らしく明るく。でも明日はとうとう。
イエローキャブ大阪、水着の女性の方々は所属しているタレントさんなのか
かって野田社長の元で小池栄子さん・佐藤江梨子さん・MEGUMIさんがいたなあ、全盛期に分裂しちゃったけど
数年後にあの水着写真のひとりが私でしたという小池栄子さんクラスのタレントさんが表れるかもね、知らんけど