2024/3/26(火)最終週/第26週「世紀のうた 心のうた」
あらすじ
スズ子が茨田りつ子にも歌手引退の決意を伝えました。茨田りつ子はスズ子の決意を尊重すると応えました。そして引退するなら絶縁するとまで言った羽鳥の気持ちに対して茨田りつ子は理解を示しました。
スズ子が家に戻るとタケシがスズ子の帰りを待ち構えていました。引退の決意を聞かされ取り乱したことを詫びたタケシはスズ子に言いました。スズ子の歌を聴いてくれた全国の人に引退の報告をしようと。
一方、スズ子に対して絶縁宣言までした羽鳥は、スズ子の引退を撤回させられないかと茨田りつ子に相談していました。羽鳥は絶縁するとまで言ってしまったことを深く後悔し、茨田りつ子もまた絶縁すると言ったのはよろしくないと諭しました。
そして迎えたスズ子が引退を発表する記者会見の日。その日の朝、羽鳥は記者会見が開かれることを麻理から初めて聞かされていました。一方、記者会見の会場では、いよいよスズ子が記者たちの前に姿をあらわそうとしていました。
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感想
スズ子ちゃんと羽鳥先生の関係がどれほどのものだったかが、茨田りつ子と麻理さんの視点から語られました。
茨田りつ子の視点:スズ子ちゃんと羽鳥先生の関係
スズ子ちゃんと羽鳥先生の関係について茨田りつ子は言いました。
「本当にうらやしい関係」
「私にもたくさんの名曲を作ったが、やっぱり福来スズ子」
「あの子の歌を作っているときが一番楽しそうだった」
茨田りつ子の視点は同業者としての視点です。
茨田りつ子もこれまでたくさんの歌を羽鳥先生に作ってもらってきたはずです。
今回も会話の最後に新曲をリクエストしていました。
また、スズ子ちゃんは茨田りつ子以外の膨大な数の歌を羽鳥先生が作り続けてきた事実も、茨田りつ子はよく知っている立場にいます。
そして、無関心を装いながらも、羽鳥先生が作った自分以外の歌の数々。
それらの歌を作る時の羽鳥先生を、茨田りつ子は注意深く観察していたことが考えられます。
茨田りつ子は、羽鳥先生と歌手の関係を同業者の視点で見続けてきました。
そして出た結論が
「あの子の歌を作っているときが一番楽しそうだった」
です。
羽鳥先生は音楽がすべて。
誰の歌を作っているときでも羽鳥先生はワクワクしながら取り組んでいたことも茨田りつ子は承知しています。
しかしスズ子ちゃんの歌を作っているときの羽鳥先生の「ワクワク」は、他の歌手の歌を作っている時の「ワクワク」とは次元が異なるものだったようです。
羽鳥先生は天然な性格だから、そこが自分にはわからない。
羽鳥先生が自覚できていないことを、茨田りつ子は見事に言語化してくれました。
麻理さんの視点:スズ子ちゃんと羽鳥先生の関係
スズ子ちゃんと羽鳥先生の関係について麻理さんは言いました。
「あなたに捨てられるのが怖い」
「あなたがいないと自分の歌が作れない」
「あなたたちの関係は誰も入ることができない」
「二人だけの世界がある」
「焼きもち焼いてしまいそう」
麻理さんの視点は妻の視点です。
麻理さんと羽鳥先生の馴れ初めは、いつだったか二人がスズ子ちゃんに語った通り。
羽鳥先生は麻理さんに一目惚れ。
そして、麻理さんを試すような行動をとって、その時の麻理さんの反応によってプロポーズすることを決めました。
羽鳥先生にとって、麻理さんはそんな特別な存在です。
麻理さんは他の女性とは比べられない何を持った人として、羽鳥先生の目には映っています。
また羽鳥先生が音楽に没頭して、他のことは何も気をつかわなくて済んだのも麻理さんが支えてくれたから。
麻理さんもその自覚はあるはずです。
平均的な夫婦より密な夫婦関係を築いているのが羽鳥先生と麻理さん。
にもかかわらず麻理さんは言いました。
「焼きもち焼いてしまいそう」
焼きもち焼いてしまいそうというより、焼きもちを焼き続けてきたというのが麻理さんの本音のような気がします。
茨田りつ子と麻理さんの共通点:スズ子ちゃんと羽鳥先生の関係
茨田りつ子は次のように言いました。
「本当にうらやしい関係」
麻理さんはは次のように言いました。
「焼きもち焼いてしまいそう」
茨田りつ子と麻理さんに共通する感情は「嫉妬」です。
「私にもたくさんの名曲を作ったが、やっぱり福来スズ子」
「あなたたちの関係は誰も入ることができない」
羽鳥先生に一番近い二人にここまで言わせる関係が失われようとしている。
失われるのだったら、いっそ自分で壊してしまえ。
そんな気持ちが「絶縁」という言葉になって羽鳥先生の口から出たのかもしれません。
予習レビューと史実のリアルエピソード
笠置シヅ子さんが引退を決意するまでの数年間の出来事
笠置シヅ子さんが歌手引退を表明したのは昭和32年ですが、昭和20年代後半にはブギのブームは下火になり、ブギと入れ替わるようにマンボがブームとなっていました。
マンボとはキューバのダンス音楽です。
昭和28年秋、サヴィア・クガート楽団の来日公演がきっかけでマンボの人気が上昇。
昭和30年4月にアメリカ映画『海底の黄金』が日本公開。
同映画のテーマ曲『セレソ・ローサ』というマンボの曲が大ヒットし、日本のマンボブームはピークを迎えました。
同じ昭和30年には、美空ひばりさんの『お祭りマンボ』、江利チエミさんの『パパはマンボがお好き』、雪村いづみさんの『マンボ・イタリアーノ』が大ヒット。
美空ひばりさん、江利チエミさん、雪村いづみさんの「3人娘」が全盛期を迎えました。
また、マンボの王様と呼ばれた音楽家ペレス・プラード氏が率いるペレス・プラード楽団が昭和31年10月に初来日。
そのコンサートでは、「3人娘」がペレス・プラード楽団の演奏で歌う場面も用意されていて、「3人娘」の注目度はますます上がりました。
そんな中、笠置シヅ子さんの新境地開拓を狙って服部良一氏は『ジャンケン・マンボ』『エッサッサ・マンボ』を作曲。
マンボブームに乗る形で笠置シヅ子さんも昭和30年に『ジャンケン・マンボ』『エッサッサ・マンボ』を発売しました。
しかし笠置シヅ子さんのマンボはヒットしませんでした。
昭和30年に2曲のマンボを発売したもののヒットに恵まれなかった笠置シヅ子さんは、昭和31年に『ジャジャムボ』『たよりにしてまっせ』を発売。
この2曲が再録音盤を除くと笠置シヅ子さんの最後のオリジナル曲となりました。
そして笠置シヅ子さんは昭和31年大晦日の『第7回NHK紅白歌合戦』に大トリとして出演。
昭和32年早々に歌手廃業を宣言しました。
なお昭和32年大晦日の『第8回NHK紅白歌合戦』の大トリは美空ひばりさんが務めました。
当時、美空ひばりさんは20歳。
なお『NHK紅白歌合戦』の大トリの最年少記録は山口百恵さんの19歳です。
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麻里「あなたがいなくなったら···········自分の歌が作れないぐらいに思っているのかも知れない·············。」
山口百恵さんが引退してから、宇崎竜童先生が作曲家として物凄くやる気を失ってしまったという話を思い出しました。
茨田さん、同志、やはりスズ子さんの事は高く買ってた。タケシ君。偽らざる心境を吐露。久々のカツオ君すっかり成人し。羽鳥先生、茨田さんに説得をお願いするつもりが逆に。麻里さん。間近に見てたから二人の関係性が。茨田さん、麻里さん同じ事言ってる。「苦しみなさい。」記者会見どうせあいつも来ている。
ター坊、大人になりましたね。そしてしっかり場も用意できるようになった。
ここから本物のマネージャーになったのかな。
史実は知らないけれど。茨田さんはよく知っている。そして冷静に見ている
貴重な第三者。こういう人がいてくれて幸せでしたね。
2000曲中のわずか50曲。でも最高に光っていた50曲だったんでしょうね。
大いに二人とも苦しんじゃえ。期せずして第三者2人が同じ事を言う。
予習レビューに対しまして
山口百恵さんが最年少で担ったのは赤組トリで「プレイバックpartII」を歌われていました、緑の中を走り抜けてく真っ赤な車~♪という国営放送用の歌詞で
因みにその年の大トリは沢田研二さんで、レコード大賞獲ったピンクレディは裏番組出演のため紅白歌合戦辞退しています
紅白歌合戦もレコード大賞も権威があり高視聴率だった頃の話