虎に翼

多岐川の病状が悪化する / 虎に翼 第120回

2024/9/13(金)第24週「女三人あれば身代が潰れる?」

あらすじ

香淑と汐見の娘・薫が不起訴になりました。

しかし香淑が自分の出自を隠していたことに対して薫は怒りを爆発させ、それ以降、香淑と薫の間には溝が出来てしまいました。

一方、多岐川の病状は悪化の一途を辿っていました。

衰弱しきった多岐川は、最後の力を振り絞って少年法改正に反対する意見書を桂場に届けようとしました。

参考:Yahoo!テレビ

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鑑賞後の感想

感想欄は放送後に追記します。

史実のリアルエピソード

今週、ヒャンちゃんと汐見さんのお嬢さん、薫さんが逮捕されます。

学生運動の騒動に巻き込まれての逮捕のようです。

時は昭和44年(1969年)。

日本国中で学生運動が激化していた頃です。

そこで、今回の本欄では当時の学生運動の経緯をまとめてみました。

東大闘争の始まり

ことの始まりは昭和43年(1968年)6月の東大闘争でした。

東大闘争の発端は昭和20年代(1940年代後半)から続いていた、医学部生のインターン制度の廃止を要求する運動が発端です。

当時、医療現場の人手不足を補うために、医学部生たちは卒業後に無資格無給での研修を義務づけられていました。

昭和43年(1968年)1月、東大医学部全 4学年がストライキを開始。

それに対して大学部教授会は、インターン制度反対運動に従事していた学生の大量処分を決定。

その後も医学部生たちはインターン制度の廃止と学生処分の取り消しを訴えたものの、医学部教授会は訴えを無視。

そこで医学部生たちはこの問題を世の中に喧伝するために、昭和43年(1968年)6月に本郷キャンパスの安田講堂を占拠しました。

しかし、その2日後に東大執行部は学生たちを排除するために機動隊を導入。

機動隊導入が引き金となり、医学部生に対する処分の撤回や機動隊導入への謝罪を求める動きが医学部を超えて拡散。

昭和43年(1968年)10月には東大の全10学部の学生たちが、無期限ストライキを開始しました。

昭和43年(1968年)10月、東大の全10学部の学生たちが無期限ストライキを開始したものの、一方で保守派学生たちが組織化しストライキに対抗。

翌年の昭和44年(1969年)1月に、本郷キャンパスの安田講堂を占拠していた学生たちは、機動隊との衝突の末に、最終的に排除されました。

日大紛争

一方で、東大闘争に始まった学生運動は全国に拡大。

国公立と私立の大学のほとんどで、闘争状態や紛争状態に陥りました。

その中でも東大闘争と並んで全国の学生運動に多大な影響を与えたのが日大紛争です。

昭和43年(1968年)4月、日大理工学部教授が裏口入学への額の謝礼金を受け取りながら脱税したこと。

同年5月、日大の会計監査の中で使途不明金が発覚したこと。

これら二つの不正に足しいて、日大の学生たちが激怒。

大規模な大学紛争が始まりました。

昭和43年(1968年)6月、日大法学部生約300人がストライキを開始し三号館を占拠。

しかし同年9月、機動隊などによる強制排除が実施されました。

その際に、学生が校舎4階から約16kgのコンクリート片を機動隊の巡査部長めがけて落下させ、巡査部長は死亡しました。

学園紛争の中で警察官に死者が出る初のケースでした。

この事件を機に、警察の方針はそれまでの「検挙よりも解散」から「徹底的な取締」に転換。

同年10月、大学紛争が長期化する日大からは新入社員を採用しないと企業の人事担当者たちが宣言。

日大の学生たちの間で卒業や就職への不安が広がる中、紛争は収束に向かっていきました。

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