あんぱん

テレビ番組に出演する嵩 / あんぱん 第103回

2025/8/20(水)第21週「手のひらを太陽に」

あらすじ

ある日、健太郎は嵩にテレビ出演を依頼。

健太郎の頼みを引き渋々受けた嵩は、NHKの『まんが教室』という生放送番組に出演することになりました。

そして迎えた初めてのテレビ出演当日。

嵩は緊張しながら生放送に挑みました。

のぶがテレビの前で見守る中、絵描き歌が始まって早々にミスをした嵩は激しく動揺し・・・

その数日後、羽多子が高知から康太を連れて柳井家にやってきました。

康太は朝田パンの店の跡を借りて、食堂を開くことになったとのぶや嵩に報告しました。

参考:地デジ番組表

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鑑賞後の感想

感想欄は放送後に追記します。

予習レビューと史実のリアルエピソード

八木さんが会社を設立

今週、八木さんが会社を設立します。

時代は高度経済成長期の真っ只中、人々の暮らしにゆとりが出てきたころです。

それまでの食べるのがやっとの時代を経て、レジャーを楽しむゆとりが出てくる中、レジャーブームのニーズに応じる商品を八木さんの会社は取り扱うようです。

具体的に取り扱う品目で今のところ判明しているのはビーチサンダル。

今の時代、ビーチサンダルを売ってどうなるの?とうい気もしますが、当時はビーチサンダルだけでも商売が成り立ったのでしょうか。

ちなみに八木さんの会社の社名は「九州コットンセンター」です。

社名に「九州」という地名が入っていますが、今週も八木さんは東京にいる様子。

故郷の地名を社名につけただけかのか。

あるいは故郷の名産品を取り扱う会社であることを示すために「九州」という地名をつけたことも考えられます。

ところで、八木さんの会社設立という展開。

いきなりのような気もしますが、終戦直後に八木さんがやっていたことを振り返ってみれば、ごく自然な展開なのかなとも思います。

終戦直後の八木さん振り返り

戦後に入ってのぶちゃんや嵩くんは東京へ取材旅行。

その際、嵩くんは有楽町のガード下で八木さんと再会しました。

その時に八木さんがやっていたことは闇酒の製造販売でした。

八木さんの周囲の人々の話によれば、闇酒の製造販売によって八木さんは相当な額のお金を稼ぎ出したらしい。

もっとも稼いだお金は孤児たちを食べさせるために使い切ってしまったようですが。

八木さんの周囲の人々は「荒稼ぎ」という言葉も使っていたと記憶しています。

この言葉から、八木さんにはかなりの商才があることがわかります。

八木さんは学のあるエリートです。

だから就職しようと思えば働き口は見つかったはずです。

しかし就職ではなく、危なっかしい橋を渡りながらも自営の道を選択。

そんな人が会社を設立するのは自然の成り行きというものでしょう。

ちなみに八木さんが製造販売していた「カストリ」とは、終戦直後の闇市に出回っていた密造酒の呼称です。

語源は「粕取り焼酎」。

高度経済成長期のビーチサンダルと同様、終戦間際には飛ぶように売れたようです。

八木さん、目の付け所が鋭い人物のようです。

【史実】リアル八木さんの会社設立

ドラマの中の八木さんは「九州コットンセンター」という会社を設立しました。

このエピソードのモチーフになっているのは、辻信太郎氏が設立した「山梨シルクセンター」です。

史実の「山梨」は「九州」に。

史実の「シルク」は「コットン」に差し替えられています。

八木さんのモチーフとなった辻信太郎氏は、戦後、山梨県庁に就職し県庁勤めを約10年続けます。

その後、県庁の外郭団体で山梨県の特産品である絹製品を取り扱う「山梨シルクセンター」を株式会社にして独立。

辻信太郎氏が「山梨シルクセンター」の経営に携わるようになってからは、山梨県産の絹製品だけでなく様々な商品を取り扱うようになりました。

そんな中で「山梨シルクセンター」はキャンディの容器を不二家から受注。

不二家から受注した容器のデザインの依頼を辻信太郎氏が依頼した相手がリアル嵩くんでした。

リアル八木さんこと辻信太郎氏とリアル嵩くんとの交流はこの時から始まりました。

それから月日が流れること昭和48年(1973年)、「山梨シルクセンター」は社名を「サンリオ」に改めました。

「ハローキティ」の「サンリオ」です。

ドラマのクライマックスでは、あの無愛想な八木さんが可愛いネコのキャラクターを取り扱うことになるのでしょうか。

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