NHK連続テレビ小説(朝ドラ)『あんぱん』
2025年8月25日 〜 8月29日放送
あらすじ
八木が嵩に詩集の出版を提案
嵩に詩の才能があることを見抜いた八木は、ある日嵩に提案しました。
八木の会社「九州コットンセンター」に出版部を作るので、そこで嵩の詩集を出さないかと。
詩集『愛する歌』が出版
八木の申し出を、嵩は一度は断りました。
しかし八木の熱意に押し切られる形で、嵩は詩集『愛する歌』を出版することになりました。
詩集『愛する歌』が大ヒット
嵩も含めて誰もが詩集『愛する歌』は売れないと思っていました。
しかし多くの人の予想をくつがえし、詩集『愛する歌』は大ヒットしました。
そんなある日『愛する歌』に救われたという小学生の女の子が柳井家にやって来ました。
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今週の展開
106: 8/25(月)
107: 8/26(火)
108: 8/27(水)
109: 8/28(木)
110: 8/29(金)
予習レビューと史実のリアルエピソード
いつのことか忘れましたが、ブログ主は八木さんというキャラクターは、リアル嵩くんが三越の入社試験で落ちかかったところを助けた人物ではないかと仮説を立てました。
そんな仮説を書いた際に、次のようなコメントを当ブログに頂戴しました。
八木さんは、サンリオの創業者・辻信太郎氏ではないか。
文学をこよなく愛した人物という点で一致点がある、みたいなコメントです。
どうやら、この方のコメントは的確だったようです。
そしてブログ主の仮説はまたしてもはずれたようでもあります。
そこで、八木さんの実在モデルと考えられる辻信太郎氏についてまとめて見ました。
八木さんと辻信太郎氏の共通点
八木さんと辻信太郎氏の共通点は以下のとおりです。
まず、ドラマの中の終戦直後の焼け野原の東京の描写の中で八木さんは子供たちにゴーリキーの『どん底』を読み聞かせていました。
そして、そんな八木さんを見て嵩くんが言いました。
ゴーリキーを読み聞かせるなんて八木さんらしい、みたいなことを。
八木さんが手にしていた本のタイトルを画面の中でしっかりと映し出し、さらに嵩くんの口からその作家名をしゃべらせる。
これらによって視聴者に「ゴーリキー」を印象付けました。
このゴーリキーですが、実は辻信太郎氏がこよなく愛した文豪の一人です。
また辻信太郎氏は、詩を愛する文学青年でもありました。
また、辻信太郎氏が創業したサンリオは言わずと知れた「ハローキティ」をはじめとした子供たち向けのキャラクターで知られた会社です。
辻信太郎氏がそのような会社を目指した理由。
それは過酷な戦争体験にあります。
辻信太郎氏は軍隊に入隊していませんが故郷の山梨で空襲を経験。
戦後は、子供たちに戦争のない世界を残したいという思いから事業を展開しました。
ドラマの中の八木さんも、戦後になって子供たちのために尽くしていました。
この点でも共通しています。
また、また軍隊での八木さんの最後の描写は、岩男くんがリン少年に殺害され、戦争の理不尽さに感情を爆発させる場面でした。
この時の岩男くんとリン少年の悲劇は、リアル嵩くんの絵本『チリンの鈴』がモチーフになっています。
実は辻信太郎氏は『チリンの鈴』をアニメ映画化もしています。
八木さんと辻信太郎氏、情報を整理してみるとこれだけの共通点が見つかりました。
辻信太郎氏の略歴
辻信太郎氏の略歴は次のとおりです。
昭和2年(1927年)山梨県甲府市生まれ。
リアル嵩くんより8歳年下です。
昭和20年(1945)桐生工業専門学校(現在の群馬大学)に入学。
文学青年の辻信太郎氏でしたが、徴兵を避けるために理系の化学工業科を選びました。
その年の7月、夏休みで帰省していた故郷の山梨県甲府市が空襲に見舞われました。
戦後、山梨県庁に就職。
約10年で県庁勤めをした後、辻信太郎氏は県庁の外郭団体で県の特産品の絹製品を取り扱う「山梨シルクセンター」を株式会社にして独立。
「山梨シルクセンター」が不二家に納入するキャンディの容器のデザインの依頼がきっかけとなり辻信太郎氏とリアル嵩くんとの交流が始まりました。
それから月日が流れること昭和48年(1973年)、「山梨シルクセンター」は社名を「サンリオ」に改めました。
詩集『愛する歌』
昭和41年(1966年)リアル嵩くんは詩集『愛する歌』を出版。
当時、詩集は500部売れるかどうかと言われる中、リアル嵩くんの詩集『愛する歌』は10万部を売り上げる大ヒット。
この詩集『愛する歌』が出版されるまでの経緯をまとめてみました。
辻信太郎氏との出会い
詩集『愛する歌』を出版した前年の昭和40年(1965年)。
東京都内で陶芸の工房を開いている人物からの誘いでリアル嵩くんは陶器づくりに取り組み始めました。
陶芸にハマったリアル嵩くんは、ギャラリーを借りて何度も個展を開催。
ある個展の際、会場にやってきた山梨の小さな会社の経営者がリアル嵩くんにキャンディの容器のデザインを依頼。
この経営者の名は辻信太郎氏。
「山梨シルクセンター」という社名でありながら絹製品とは無関係なものばかり取り扱う実態がよく分からない会社を経営していました。
リアル嵩くんと辻信太郎氏との出会いが、その後に詩集『愛する歌』の出版へと発展しました。
自費出版の詩集
辻信太郎氏と出会った当時、リアル嵩くんは自費出版の詩集を出版していました。
詩集のタイトルは『ぼくのまんが詩集』。
そのころ、リアル嵩くんはラジオ放送のためのコントやドラマを書いた際に、劇中で使われる詩も作詞していました。
しかし、それらの詩は放送で一回使われるだけで作品として残されることはない。
せっかく書いた詩を詩集の形で残したい。
そう考えたリアル嵩くんは、低予算の詩集を出版。
ただし、詩人を本業としている人たちから笑われるのを避けるため、親しい友人知人にだけ配布していました。
そんな中、リアル嵩くんは次の詩集の原稿を辻信太郎氏に見せる機会がありました。
文学をこよなく愛する辻信太郎氏は、リアル嵩くんが書いた詩を心から気に入ってしまい提案しました。
この詩は自費出版ではなく商業出版にして書店で売った方がいい。
出版は我が社が引き受けると。
ところが当時、辻信太郎氏が経営する「山梨シルクセンター」は出版などやったことがありませんでした。
詩集『愛する歌』の出版
リアル嵩くんの詩集の出版を名乗り出た辻信太郎氏でしたが、「山梨シルクセンター」と取引している銀行は出版事業に大反対。
「山梨シルクセンター」の社員からも反対されました。
しかし辻信太郎氏は強引に出版部を設立し、出版に携わりたくて入社した新人一名だけの出版部によって詩集『愛する歌』の出版プロジェクトがスタート。
昭和41年(1966年)9月、リアル嵩くん初の商業出版による詩集『愛する歌』が出版。
ところが出版の経験のない辻信太郎氏は、本をどうやって売ったらいのかが分かりませんでした。
そこで辻信太郎氏は出版物の取次会社の社員に教えを乞い詩集の販売を開始。
書店で販売するのと並行して、「山梨シルクセンター」が銀座で営業していた雑貨店でも詩集を販売。
また辻信太郎氏のツテで銀座の婦人服店・三愛にも売り場を設置しサイン会も実施。
三愛にもうけられた詩集の売り場は女性用の下着売り場でした。
初版3千部だった『愛する歌』は版を重ねて5万部を販売。
また『愛する歌』は第五集まで刊行されました。
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『愛する歌』に救われて柳井家にやって来るという小学生の女の子…ひょっとしたら、脚本を担当されている中園ミホさん御自身がモデルかな?と一瞬感じました。