美津が看護の仕事に反対 / 風、薫る 17回
2025/4/21(火)第4週「私たちのソサエティ」
あらすじ
捨松からトレインドナースにならないかと誘われたりんは、美津にそのことを話しました。
しかし美津は看護の仕事に対して全く理解がなく、士族の娘がやる仕事ではないと大反対しました。
そんなある日、環が高熱を出しました。
苦しそうな環を前にして何もすることが出来ないりんは、もどかしさを感じずにはいられませんでした。
一方、りんと同様に捨松からトレインドナースに誘われていた直美は、吉江のもとに足を運んでいました。
参考:地上波番組表
第9週 | 第10週 | 第11週 | 第12週 | 第13週
風、薫る|感想あらすじネタバレトップページ
鑑賞後の感想
感想欄は放送後に追記します。
予習レビューと史実のリアルエピソード
上京したりんちゃんに働き口を提供した老紳士、瑞穂屋卯三郎。
このキャラクターに実在モデルがいることをブログ主は遅ればせながら知りました。
本来は前週の予習欄で紹介すべきところでしたが、ちょっと遅れて瑞穂屋卯三郎の略歴についてまとめてみました。
瑞穂屋卯三郎こと清水卯三郎
清水卯三郎(しみず うさぶろう、1829年(文政12年)―1910年(明治43年)は、武蔵国羽生村(現在の埼玉県羽生市)に生まれた実業家です。
浅草の「瑞穂屋」で知られ、瑞穂屋卯三郎とも呼ばれました。
酒造業を営む家の三男
酒造業を営む家の三男として生まれた卯三郎は、芳川波山に漢学を、箕作秋坪に蘭学を学びました。
若い頃から海外への関心が強く、1854年(嘉永7年)には下田でロシア全権大使プチャーチンに臆することなく声をかけ、返答を得た経験から、外国では身分に関係なく言葉を交わすことに感銘を受けました。
この出来事は、彼の国際感覚の豊かさを象徴しています。
清水卯三郎、江戸へ
1849年(嘉永2年)に江戸へ出た卯三郎は、佐倉の蘭方医・佐藤泰然のもとで語学を学びます。
やがて横浜で商いに携わる中で英語の必要性を感じ、通詞の立石得十郎らから学びました。
その成果として1860年(万延元年)には英語辞典『ゑんぎりしことば』を出版しています。
幕末の動乱期には外交の場でも活躍しました。1863年(文久3年)の薩英戦争では、幕府の許可を得て英国軍艦に同乗し、通訳として和平に尽力。
また拘束されていた薩摩藩士の五代才助や松木弘安を保護するなど、人道的な行動も見せました。
瑞穂屋
1867年(慶応3年)にはパリ万国博覧会に日本人商人として唯一参加し、徳川昭武を首班とする使節団とともに渡欧。
檜造りの茶店を出し、芸者による接客で人気を集め、ナポレオン3世から銀メダルを授与されました。
滞在中には商取引を巡る裁判も経験しています。
帰国後の1868年(慶応4年)、浅草に「瑞穂屋」を開き、洋書の輸入をはじめとする貿易業を展開しました。
翌年には日本橋へ移転し、印刷機を導入して出版業にも進出し、『六合新聞』を刊行して海外事情を紹介しました。
また1880年代には歯科材料の輸入販売でも活躍し、『歯科全書』なども出版しています。
日本人の知識向上に貢献
さらに卯三郎は、明治5年(1872年)に政府へ博覧会開催を提言する建白書を提出しました。
西洋の技術を直接見ることで日本の産業発展を促すべきだと説いたこの提案は高く評価され、後の博覧会開催へとつながります。
1874年(明治7年)には英国の化学書を翻訳した『ものわりのはしご』を出版し、仮名文字の普及にも尽力しました。
明六社の機関誌でその重要性を説き、「かなのとも」を結成して『かなのみちびき』を創刊するなど、日本人の知識向上を目指しました。
1910年(明治43年)、卯三郎は82歳でその生涯を閉じます。
彼の歩みは、海外に学びながら日本の未来を切り拓こうとした、先見性に満ちた実業家の姿を今に伝えています。
第9週 | 第10週 | 第11週 | 第12週 | 第13週
風、薫る|感想あらすじネタバレトップページ









