2025/4/14(火)第3週「春一番のきざし」

あらすじ

フランス語を話す西洋人の客の対応で困り果てていたところを、謎の青年・シマケンに助けてもらったりん。

その出来事がきっかけとなり、りんは少しでも瑞穂屋の役に立とうと英語の勉強を始めました。

一方の直美は、りんの東京での生活が落ち着き始めていることを吉江に報告。

そんな中、ある作戦を思い立った直美はメアリーから借りたドレスを着て鹿鳴館へと足を運びました。

参考:地上波番組表

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鑑賞後の感想

感想欄は放送後に追記します。

予習レビューと史実のリアルエピソード

今週、りんちゃんは東京日本橋の瑞穂屋という舶来品を扱う店で働き始めます。

ところで史実の中のリアルりんちゃんは、嫁ぎ先を飛び出てから東京で最初に手に入れた仕事は女中の仕事でした。

鄭永寧という名の唐通事(中国語の通訳)をしている人物の屋敷で、次男の鄭永慶とその妻の世話をするのが主な仕事でした。

今回の予習欄では、

・鄭永寧
・鄭永慶
・唐通事(中国語の通訳)

についてご紹介します。

鄭永寧

鄭永寧(1829―1897)は、幕末から明治にかけて活躍した外交官・通訳・教育者です。

本姓は呉、通称は右十郎。

長崎で唐小通詞・呉用蔵の子として生まれ、のちに鄭幹輔の養子となって鄭家を継ぎました。

呉氏・鄭氏はいずれも代々唐通詞を務める家系で、永寧も1848年(弘化5年、嘉永元年)に稽古通詞となり、正式な唐通詞としての道を歩み始めます。

幕末の動乱期には、長崎奉行配下の通事として対外関係事務を担当。

明治維新後は新政権に登用され、1868年(慶応4年、明治元年)に広運館の翻訳方となり、実兄の呉碩三郎と『万国公法』を共訳しています。

翌1869年(明治2年)には外務省に入り、一等訳官から大訳官へと昇進。樺太出張を経て文書権正となり、外交の最前線で活動しました。

清国との条約交渉が進む中、1871年(明治4年)に開設された漢語学所の教師となり、責任者として後進の指導にも従事。

この漢語学所は後に東京外国語学校(現・東京外国語大学)へと発展しました。

外交官としては、伊達宗城や柳原前光、副島種臣、大久保利通、森有礼らの清国派遣に随行し、談判通訳や代理公使として活躍します。

天津条約締結の際にも伊藤博文に随行し、通訳を務めました。

1886年(明治19年)に退官し、1897年(明治30年)に東京で死去しました。

鄭永慶

鄭永慶(1858―1894)は、明治時代に活躍した実業家で、日本初の本格的なコーヒー店「可否茶館」の創業者です。

肥前長崎に生まれ、明治7年にアメリカのイェール大学へ留学しました。

帰国後は外務省や大蔵省に勤務しましたが、1888年(明治21年)、東京・下谷西黒門町、現在の台東区上野に「可否茶館」を開業しました。

店は200坪の敷地に建つ二階建て木造洋館。

1階にはトランプや玉突き、クリケット、碁、将棋などを備え、更衣室や化粧室、シャワー室、新聞雑誌や書籍を閲覧できる部屋まで設けられていました。

2階は喫茶室で、丸テーブルや角テーブル、籐椅子が置かれ、コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りは二銭でした。

パンやカステラなどの軽食も提供されていました。

鄭永慶はこの店を、庶民のためのサロンであり、知識も学べる広場にするという理念で開いたとされています。

しかし時代を先取りしすぎたのか経営は振るわず、借金を抱えて閉業。

その後カナダ経由でシアトルに密航しますが、1894年(明治27年)7月17日、37歳で亡くなりました。

日本の喫茶文化の原点ともいえる試みは短命に終わりましたが、その挑戦は近代都市文化の先駆けとして今も語り継がれています。

唐通事とは

唐通事(とうつうじ)とは、江戸時代に長崎や薩摩藩、琉球王国などに置かれていた中国語の通訳のことです。

当時「通事」といえば基本的にこの唐通事を指し、オランダ語の通訳である「阿蘭陀通詞」とは漢字を書き分けて区別されていました。

長崎では1604年(慶長9年)、在留中国人の馮六官が任じられたのが始まりとされます。

以後、日本語を話せる中国人とその子孫が、一子相伝を原則に役目を受け継いでいきました。

つまり、単なる語学の専門職というより、家業として代々続く特別な職だったのです。

仕事内容も通訳だけではありませんでした。

唐人の身辺処理や監視、キリシタン取締、唐僧の招聘などに関わり、さらに貿易品の価値鑑定や信牌交付といった貿易統制にも関与しました。

時には直接貿易に携わる者もおり、外交・治安・商業の境界に立つ存在だったといえます。

人数は時代とともに増え、1672年(寛文12年)には9人ほどだった定員が、1824年(文政7年)には82名にまで拡大しました。

唐人社会の指導的役割も担い、長崎の国際都市としての運営に深く関わっていたことがうかがえます。

彼らは日本の苗字を名乗ることも多く、林・頴川・彭城などの家が名門とされました。

幕末以降には、外交や語学教育の分野で活躍する人物も現れています。

また琉球でも、中国系住民の集落・久米村の人々が通事となり、中国へ留学して外交に従事しました。

通訳という言葉から想像する以上に、唐通事は国際交流を支えた多面的な存在だったのです。

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