2025/4/2(木)第1週「翼と刀」

あらすじ

信右衛門がコレラに感染しました。信右衛門を避病院に入れたくない一心のりんは、信右衛門を看病してくれる人を雇うために家の中にあるお金を探しました。そんな中、信右衛門はりんへの感染を防ぐため自ら納屋に閉じこもってしまいました。

納屋の中の信右衛門は厳しい言葉でりんに指示しました。納屋の前に水を置いておけ。それ以外は納屋に決して近づくなと。りんがどれほど懇願しようとも、信右衛門はりんが納屋に近づくことを許しませんでした。

一方、縁談を進めるために東京に行っていた美津と安が栃木に戻ってくるものの、村は閉鎖され家に帰ることができません。村境の橋で足止めされた美津は、中村から信右衛門がコレラに感染した事実を知らされました。

明くる日。信右衛門は最後の力を振り絞って納屋の中からりんに訴えました。腹を切って許されるのは武士の世まで。これからは情けないと言われても生きていかねばならないと。そして信右衛門は納屋の中で静かに息を引き取りました。

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感想

第一週でヒロインの最愛の父の死。

怒涛の展開です。

信右衛門が倒れる

前回、信右衛門さんがいきなり激しく咳き込みその場で倒れました。

前回はその場面で終わり。

今回のアバンタイトルは家の中で寝ている信右衛門さんと、信右衛門さんを診察するお医者さま、そして心配そうに見守るりんちゃんの図。

前回のあの後、りんちゃんは信右衛門を布団に寝かせると慌ててお医者さまを呼びに行ったのでしょう。

お父上はコロリかも知れない。

そんな不安に押しつぶされそうになりながら。

そしてその不安が的中してしまったのが今回のアバンタイトルでした。

さて、信右衛門は自分を避病院に入れてくれとお医者さまに訴えました。

しかし、りんちゃんがそれを拒みました。

前回まで、避病院の環境がどのようなところなのかをりんちゃんが理解する描写がありましたが、それら描写が回収されました。

避病院に入ったら戻ってこれないと聞かされていたりんちゃん。

お父上を避病院にだけは入れなくない。

そこでお医者さまの助言に従い看護をしてくれる人を雇おうと思い立つもののお金が足りない。

りんちゃんがお金の不足で困り果てているその隙に信右衛門さんは納屋へ。

愛する娘には感染させたくない。

そんな父親の愛情に泣かされました。

納屋には近づくなとりんちゃんに厳しく指示する信右衛門さん。

これまでの信右衛門さんの口調はいつも穏やかで命令口調など全くありませんでした。

それ故に、信右衛門さんがどれほど必死なのかが伝わってきます。

第一週からこんなに苦しい場面を見ることになるとは・・・

「生きろ」

信右衛門が倒れて納屋に閉じこもった翌日のことでしょうか。

納屋の中の信右衛門さんにりんちゃんが呼びかけても反応がなくなる。

焦るりんちゃん。

お父上が息絶えたと思ったのでしょう。

その直後、画面には納屋の中の信右衛門さんが映し出されました。

信右衛門さんはまだ生きていました。

しかし、息も絶え絶えです。

刀を抱きしめる信右衛門さん。

武士の身分への未練を斬って捨てた覚悟と、それでもわずかに残る武士の世への執着心が見え隠れするような姿でした。

「私はまだまだ行きたいようだ」
「腹を切って許されるのは武士の世まで」
「これからは情けないと言われても生きていかないといかん」
「生きろ」

これら信右衛門さんの最期の言葉を胸に、りんちゃんの激動の物語が始まった。

そんな感想を持った『風、薫る』第4回でした。

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予習レビューと史実のリアルエピソード

身寄りのない直美ちゃんは、教会で保護され育ったという設定です。

そんな直美ちゃんをキリスト教の牧師・吉江善作という人物が見守ります。

一方、史実では直美ちゃんではなくりんちゃんがキリスト教の牧師と深い関わりを持ち、その牧師との関わりの中で看護婦への道を開かれます。

今回の本欄では、リアルりんちゃんが深く関わりを持っていた牧師・植村正久氏についてまとめてみました。

植村正久

植村正久(うえむら まさひさ、1858年〈安政4年〉1月15日―1925年〈大正14年〉1月8日)は、日本のキリスト教界に大きな足跡を残した思想家であり、牧師・神学者です。

田村直臣、松村介石、内村鑑三とともに「キリスト教界の四村」と称され、日本のプロテスタントの指導者として強い影響力を持ちました。

植村は徳川家に仕える1500石の旗本の家に生まれ、幼名を道太郎といいました。

しかし大政奉還によって家は没落し、彼は立身出世を目指して英学を学び始めます。

その中でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンとジェームス・バラに出会い、1873年(明治6年)5月4日、16歳でバラから洗礼を受けました。

1871年(明治4年)に修文館に入学し、ブラウンや押川方義、井深梶之助らと交流を深めます。

1874年(明治7年)にはブラウンが創設した英学校に進み、さらに1877年(明治10年)には井深梶之助らとともに東京一致神学校の一期生となりました。

卒業後は東京府下谷練塀町で伝道活動を始め、生活のために翻訳や明治学院での神学教育を行いながら牧師としての歩みを進めていきます。

1879年(明治12年)には横浜フェリス女学院で研修していた山内季野に結婚を申し込み、後に1882年(明治15年)に結婚しました。

同年12月24日には按手礼を受け、日本基督一致教会の牧師となります。

1887年(明治20年)3月6日には一番町教会(後の富士見町教会)を設立し、教会形成に尽力しました。

また1884年(明治17年)には『真理一斑』を刊行し、思想家としての活動も展開します。

1888年(明治21年)には海外へ渡り、ロンドンに滞在してチャールズ・スポルジョンやジョセフ・パーカー、ジェイムズ・マーティノウらの説教に触れました。

1889年(明治22年)に帰国後は、東北学院神学部の教授に選ばれ、教育にも力を注ぎます。

その後も各地を巡回して説教を行い、1890年(明治23年)には『福音週報』を創刊、翌1891年(明治24年)には『福音新報』と改題しました。

同年には京都で新島襄の葬儀にも参列し、イギリス滞在中には救世軍のウィリアム・ブースと面会しています。

1890年代には教会内の議論にも深く関わりました。

1893年(明治26年)には田村直臣の著書『日本の花嫁』を批判し、教会内での問題に発展します。

最終的に1894年(明治27年)の日本基督教会大会で田村は牧師職を免ぜられました。

さらに1899年(明治32年)に宗教取締令が発布されると、『福音新報』でこれを批判するなど、社会的問題にも積極的に発言しました。

1901年(明治34年)には明治学院神学部で系統神学を担当し、W・N・クラークの神学書を教科書として用いました。

同年には海老名弾正との神学論争も起こり、1902年(明治35年)頃まで続きました。

1902年(明治35年)には一番町教会創立15周年を記念する会を開き、福音同盟会でも自身の主張が支持されます。

また各地を巡回して説教を行い、台湾や北海道にも足を運びました。

植村正久は、生涯を通して日本のプロテスタント教会の形成と発展に尽くしました。その思想と行動は、後の日本キリスト教界に大きな影響を与え続けています。

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