美津と安が東京から戻る / 風、薫る 4回
2025/4/2(木)第1週「翼と刀」
あらすじ
信右衛門がコレラに感染して倒れてしまいました。
そんな中、縁談を進めるために東京に行っていた美津と安が栃木に戻ってくるものの、村は閉鎖され家に帰ることができません。
そんな中で美津は、かつて陪臣として信右衛門に仕え今は栃木県の役人をしている中村と遭遇。
美津は中村からあることを聞かされました。
参考:地上波番組表
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鑑賞後の感想
感想欄は放送後に追記します。
予習レビューと史実のリアルエピソード
身寄りのない直美ちゃんは、教会で保護され育ったという設定です。
そんな直美ちゃんをキリスト教の牧師・吉江善作という人物が見守ります。
一方、史実では直美ちゃんではなくりんちゃんがキリスト教の牧師と深い関わりを持ち、その牧師との関わりの中で看護婦への道を開かれます。
今回の本欄では、リアルりんちゃんが深く関わりを持っていた牧師・植村正久氏についてまとめてみました。
植村正久
植村正久(うえむら まさひさ、1858年〈安政4年〉1月15日―1925年〈大正14年〉1月8日)は、日本のキリスト教界に大きな足跡を残した思想家であり、牧師・神学者です。
田村直臣、松村介石、内村鑑三とともに「キリスト教界の四村」と称され、日本のプロテスタントの指導者として強い影響力を持ちました。
植村は徳川家に仕える1500石の旗本の家に生まれ、幼名を道太郎といいました。
しかし大政奉還によって家は没落し、彼は立身出世を目指して英学を学び始めます。
その中でアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンとジェームス・バラに出会い、1873年(明治6年)5月4日、16歳でバラから洗礼を受けました。
1871年(明治4年)に修文館に入学し、ブラウンや押川方義、井深梶之助らと交流を深めます。
1874年(明治7年)にはブラウンが創設した英学校に進み、さらに1877年(明治10年)には井深梶之助らとともに東京一致神学校の一期生となりました。
卒業後は東京府下谷練塀町で伝道活動を始め、生活のために翻訳や明治学院での神学教育を行いながら牧師としての歩みを進めていきます。
1879年(明治12年)には横浜フェリス女学院で研修していた山内季野に結婚を申し込み、後に1882年(明治15年)に結婚しました。
同年12月24日には按手礼を受け、日本基督一致教会の牧師となります。
1887年(明治20年)3月6日には一番町教会(後の富士見町教会)を設立し、教会形成に尽力しました。
また1884年(明治17年)には『真理一斑』を刊行し、思想家としての活動も展開します。
1888年(明治21年)には海外へ渡り、ロンドンに滞在してチャールズ・スポルジョンやジョセフ・パーカー、ジェイムズ・マーティノウらの説教に触れました。
1889年(明治22年)に帰国後は、東北学院神学部の教授に選ばれ、教育にも力を注ぎます。
その後も各地を巡回して説教を行い、1890年(明治23年)には『福音週報』を創刊、翌1891年(明治24年)には『福音新報』と改題しました。
同年には京都で新島襄の葬儀にも参列し、イギリス滞在中には救世軍のウィリアム・ブースと面会しています。
1890年代には教会内の議論にも深く関わりました。
1893年(明治26年)には田村直臣の著書『日本の花嫁』を批判し、教会内での問題に発展します。
最終的に1894年(明治27年)の日本基督教会大会で田村は牧師職を免ぜられました。
さらに1899年(明治32年)に宗教取締令が発布されると、『福音新報』でこれを批判するなど、社会的問題にも積極的に発言しました。
1901年(明治34年)には明治学院神学部で系統神学を担当し、W・N・クラークの神学書を教科書として用いました。
同年には海老名弾正との神学論争も起こり、1902年(明治35年)頃まで続きました。
1902年(明治35年)には一番町教会創立15周年を記念する会を開き、福音同盟会でも自身の主張が支持されます。
また各地を巡回して説教を行い、台湾や北海道にも足を運びました。
植村正久は、生涯を通して日本のプロテスタント教会の形成と発展に尽くしました。その思想と行動は、後の日本キリスト教界に大きな影響を与え続けています。
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